小田急線秦野駅の南側、駅から程近いところに太岳院という寺があり、その脇には今なおこんこんと清水を湧き出させる沼があるが、この沼には聞くも悲しき龍の伝説が残されている。
今となっては「今泉名水桜公園」という公園になっているが、かつてこの沼には一匹の大きな龍が棲んでいたという。
龍は人の話し声や歌声を聞くのが大好きで、夜になるたびに岸辺に近づいては聞き耳を立て、村人たちの声を聞いていた。
しかし、自らの姿を見られることを怖がり、決して沼から出る事はせずに、いつも人知れず沼の底に潜んでいたのである。
ある日、この沼の近くに住む美しい娘が、髪をとかそうと沼に出かけて、月明かりを頼り沼に自分の影を映しては櫛で髪を梳いていた。
娘は美しい歌声で歌い、華麗な姿が月影となり、沼の龍もすっかり気に入ってうっとりと聞き惚れていたのだという。
しかし、ひょんな事から娘は足を滑らせて沼に落ちてしまう。突然の水音に驚いた龍は、つい水面に姿を現してしまい、娘にその姿を見られてしまったのである。
龍は自らを見られたことを大いに嘆き悲しむと、「我が姿を見たからには返すわけにいかぬ」と娘をさらい、自らの背に乗せたまま沼底深くへ潜ってしまったのである。
しばらくして、娘がいなくなったので村は大騒ぎになった。
村人たちは、手に手に松明をかかげ、声の限りに捜したものの、見つかったのは沼に浮いた娘の草履だけだったという。
それからしばらく経ち、突然の雷雨となった。
川は増水し、沼はあふれて、ついに土手をこえると室川へといっせいに流れ込んだ。
この時に村人が見たのは、大水から身を躍らせて現れた龍の姿と、その背に乗った娘の姿であった。
龍は室川を下って姿が見えなくなり、龍の尾が触れたところに、尾尻という地名が残されているのである。
今となっては人影もなく静かな公園であるが、かつてこの沼には龍が住んでいたのである。
今となっては伝説の域を越えないが、この近辺には龍にまつわる伝説が数多く残されており、また龍は水神の化身でもあるから、このような水源地に多く残された話の一つであろう。
いま、ここに龍の姿を見る事はなくなったが、今となっては娘を嫁にして、その美しい歌声を毎日楽しんでいるのかも知れない。