みうけんのヨコハマ原付紀行

愛車はヤマハのシグナスX。原付またいで、見たり聞いたり食べ歩いたり。風にまかせてただひたすらに、ふるさと横浜とその近辺を巡ります。※現在アップしている「歴史と民話とツーリング」の記事は緊急事態宣言発令前に取材したものです。

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戦乱と開発に翻弄された 廃寺の仏像と首塚の亡霊(横浜市港南区)

交通量が多い国道1号線と、環状2号線が立体交差する平戸交差点あたりは横浜市南部における交通の要衝である。

 

その、大通りから一本外れた辺りには、きつい登り坂の上に閑静な住宅地が広がっており、かつては北条氏が城郭を構えた本城山と呼ばれていたところである。

 

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ここは読んで字の如く、城郭が設けられた場所であった。

戦国時代、北条五代の最後の頭領であった北条氏直が築いたもので、かつて台地の平坦地に土塁を巡らした掘割や空濠が遺構を留めていたそうであるが、今となってはすっかり開発されて住宅地となり往時を偲ぶよすがもない。

 

北条氏が滅亡するおり、ここでも戦闘があったと伝えられ、その戦死者を供養するべく建てられたのが元和8年(1622年)建立の「光照院名遍寺」であった。

 

2019年5月16日号の「タウンニュース港南区栄区版」には、「永谷地区
寺跡地にふるさと村構想 住民らが助成活用し活動」という見出しで、以下のように紹介されている。

 

 後世に地域の歴史を伝える場所「永谷ふるさと村」を作ろう――。永谷地区の住民らのグループが現在、こんな活動に取り組んでいる。下永谷の寺跡地の高台に行き場を失った石像を安置し、永谷地区の歴史の学び場を作ろうという。

 村づくりに取り組んでいるのは、永谷地区の各連合町内会とNPO法人港南歴史協議会のメンバーらで構成する「永谷ふるさと村」設立準備委員会(武田信雄会長)。事務局長を務める土屋清敬さん(74歳)は「地域の歴史を伝えなければならない。私の代でなんとかしたい」と話す。

 永谷地区(下永谷上永谷、丸山台、日限山、芹が谷、東永谷、東芹が谷)には、約2000年前の弥生時代から人が住んでいたという記録がある。地区内には殿屋敷遺跡やそとごう遺跡などの遺跡があり、石像物が85体あるという。

 ただ、宅地開発や道路整備などで、こうした歴史遺産が消失するケースや行き場を失うケースがある。同委員会によると、約400年前から戦後まで様々な時代に作られた石像物12体が行き場を失い、保管された状態になっているという。

 この事態に地域住民らが中心となって組織を発足。横浜市の助成事業「ヨコハマ市民まち普請事業」を活用して、歴史を伝える「永谷ふるさと村」づくりに乗り出した。対象地は下永谷1丁目の600平方メートルの更地。光安寺(戸塚区平戸町)が所有し、昭和27年に廃寺となった旧「光照院明遍寺」跡地。

 同委員会が提案する計画では、対象地を「歴史物保存エリア」「知るエリア」「勉学エリア」の3つに区分する。保存エリアには行き場を失った石像物を安置し、由来を説明する表示板を設置する構想。知るエリアには歴史遺産があった場所を示す大型の地図を設置し、勉学エリアには展示物を設置して地域の生い立ちを学ぶ場としたい考え。

 来年1月末の2次審査を通過すれば、最高500万円助成される。同委員会では整備費に充てる計画。

 土屋さんは「地域の歴史を知らない住民がほとんど。歴史を伝える人も少なくなった。ふるさと村を学びの場、地域の人たちが交流できる場として整備していきたい」と話している。

 

昭和27年に廃寺となったとされる、「本城山光照院名遍寺」 は現在の平戸バス停の真上の台地上であり、現在は更地となっているが立ち入りは禁止されている。

 

 

この名遍寺は寛永年間に修造され、更に享保17年(1732年)に後北条氏の家臣であった大津氏が再建しており、この時の棟札には「北条氏直が旅の館(屋形)を建てて当地にて軍勢を駐屯した。」という意味のことが記されていたことから、ここは北条氏が陣屋としても活用したことが分かっている土地である。

 

ここは高台であるばかりか、芹谷川と平戸川が天然の濠として囲んでいる天然の要害であり、西には永谷川が流れ、さらにその周辺には広い湿田に囲まれて馬や人の行き来は制限され、実に守りが固い城であったことがうかがえる。

 

そのような経緯のうえに東海道を抑える拠点として、また周囲を一望できる高台として、戦国時代は上杉謙信が永禄4年(1561年)に、また武田信玄が同12年(1569年)に武蔵・相模から侵攻して小田原へ兵を向けた時に重要な戦略拠点として考えられ、激しい奪い合いの戦闘があったと言われているのである。

 

下永谷バス停から本城山へ登る坂道は「大夫坂」と呼ばれているが、この大夫坂という名前の由来も、このあたりの領主であった上杉乗国が刑部大夫であったことに由来しているのかもしれない。

 

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この地域に現在も残るのが、平戸町の浄土宗、天龍山光安寺である。

 

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この寺の創建年代や縁起は明らかになっていないが、この光安寺の末寺として名遍寺があったとされており、名遍寺が廃寺となった折に名遍寺にあった仏像をまとめて安置したのが、現在の光安寺閻魔堂である。

 

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また、横浜市の古地図の中に明治38年ごろのものがあり、その中には現在の環状2号線の位置に「有花寺」(うけじ)の表記が見て取れる。

 

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これは正式名称を「有花寺」といったが、実質は地蔵院であったらしい。

ここにあった寛文10年(1670年)建立の、港南区内で最も美しい石仏と評される二十三夜塔も、道路開発によって行き場を失って現在は光安寺の墓地の片隅にひっそりとたたずんでいるのである。

 

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かつて、日本には太陽のみならず月をご神体とする信仰が芽生えており、それを月待信仰と呼ぶが、陰暦の十七夜、十九夜、二十三夜に月に供物を備えて酒宴を開いて月を祀る習わしであった。

 

二十三夜の主尊には月の化身とされていた勢至菩薩が祀られ、特に1月、5月、9月には行事は盛大に執り行われたという。

 

この有花寺由来の勢至菩薩像の二十三夜塔は寛文10年(1670年)、まだ戦国時代の香りが残るころの建立であり、横浜市内では最も古く、港南区内ではもっとも美しいお姿とされて今なお大切にされているのである。

 

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このように、戦国の城に抱えられるようにして永らえ、戦乱と近代化の波に翻弄されてきた歴史をもつところではあるが、ここには城跡ならではの悲しい伝説も残されており、それによればこの本城山の片隅には、かつて合戦の時に討ち取られた首を埋めた首塚、残された胴体や甲冑をまとめて埋めた胴塚が離れて築かれたことがあったという。

 

この首塚のあたりでは、夜になるごとに不気味なうなり声や泣き声が聞こえるようになり、子供たちはフクロウの鳴き声であるとして自らに言い聞かせ、大人たちは心労と恐怖のあまり寝込んでしまう者まであらわれる有様であった。

 

そこで、ちょうど村を通りかかった念仏行者に首塚の供養をしてもらったものの、効果は一向に現れず、ついには江戸から有名な霊厳上人を招いて盛大な供養をしたのだという。

 

それ以降は不気味な声は聞こえなくなり、病人たちの病もすっかり癒えて、またもとの平安な生活に戻ったということである。

 

同じような話は日野公園墓地に築かれた塚の話でも紹介させていただいたが、日本全国で戦乱があった戦国時代までのこと、全国には同じような話がいくらでも残っているのかもしれない。

 

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いま、本城山の上に立って、遠く港南区の街なみを眺めるとき、かつてここには多くの幟旗がなびき、手に手に弓や刀剣、槍を構えたつわものたちが気勢をあげ、遠くにまで馬のいななきが響いていたかと思うと、すっかり開発されて元の姿をとどめない平和な住宅街の中に、時の流れというものの無常をひしひしと感じるのである。

 

 

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