地下鉄港南中央駅を降り、鎌倉街道をしばらく南下していくとかつて桜の名所であった桜道への入り口へでる。
そこから新しく植え替えられた桜の木を見ながら桜道を登っていくと、その突き当たりには日野公園墓地がある。
日野公園墓地は文明開化後の爆発的な人口増加に合わせて昭和8年に開園した公営墓地であるが、自然の地形と森林を生かし、従来の墓地の暗く陰気なイメージとならないよう墓地の敷地を従来より抑えた文字通りの公園墓地であり、墓地には南極探検で知られる白瀬中尉、近代洋画の草分けとなった五姓田義松、昭和の歌姫として名高い美空ひばりなど、横浜に縁がある多くの著名人が眠っており、墓地でありながら時折観光客の姿も見かけるのである。
そんな日野公園墓地であるが、桜道の入り口から入ると正面にこんもりとした古墳のような塚が一つ残されており、公園内の道路はこの塚を迂回して作られ、今なお大切に保存されているのである。
もともとこの近辺は陣ケ台といい、古老の伝承によれば時は鎌倉時代の末期に遡るという。
鎌倉幕府との確執を深めていた新田義貞はついに鎌倉幕府を打倒せんと立ち上がり、破竹の進撃をもって、また関東中の土豪衆の加勢を受けながら5000騎とも7000騎とも言われる大軍に膨れ上がり、鎌倉に攻め寄せた。
この近隣でも鎌倉道を守る鎌倉幕府側と、鎌倉に迫る新田義貞側の軍勢でたびたび激しい戦いが繰り広げられたという事である。
結局、鎌倉幕府は戦に敗れて将兵たちは敗走をするのだが、このあたりに逃げて来た鎌倉幕府の将兵たちはことごとく残党狩りにあい、首級は戦利品として持ち帰られ、首のない屍が累々として街道周辺に散乱したということである。
これを村人たちは憐れに思ったか、屍がいつまでもあるのを忌み嫌ったのか、死人の供養にふさわしい眺めの良いところへ屍を集め、敵味方はおろか人と馬の区別もなく埋め、大きな塚を築いて供養したのがこの場所なのだという。
現在、この塚は丘陵の中でも頂上と呼べそうな高台にあり、現在となってははるか遠くにランドマークタワーをのぞみ、夜ともなればみなとみらいを望む夜景がたいそう美しいのである。
その後、近隣には北条氏家臣団の筆頭家老間宮氏により笹下城が築城され、その出城である松本城は現在は近くの天照皇大神宮となり、周囲よりひときわ高い森の中に鎮座している。
現在は宅地開発により、戦の痕跡も城跡の面影もないのだが、わずかに町内会の名前に中の丸という名前が残り、往時をしのばせている。
いまから数百年の昔、戦国時代よりもっと前にこの近隣では激しい戦があり、多くの将兵が親を、子供を、兄弟を故郷に残したままここで息絶えたという。そのまま彼らは無縁仏として葬られ、この地には遠い昔の悲しい伝説だけが残ったのであろう。
いま、この塚の前に立ち横浜の街を見渡すとき、遠くから近づいてくる旗印と馬のいななき、待ち構えて弓矢を取り構える鎧姿の将兵の勇ましい姿が目に浮かぶようで、感慨もひとしおである。