京浜急行三崎口の駅を降り、駅前のみちを北上するとすぐに西側に入っていく農道がある。果てしなくつづくキャベツの畑を眺めながらその農道を西進し突き当りを左に折れ、また右に行くと鄙びた住宅街の中に静かにたたずむ福泉寺がある。
この福泉寺は龍圓山 福泉寺と号す浄土宗の古刹で、御本尊に阿弥陀如来を構え、また三浦薬師如来霊場の第12番札所にもなっている。
開山は永禄年間(1558年~1570年)で、時はまさに戦国時代。室町幕府が滅びる寸前のころでその歴史の古さがうかがえるのである。
三浦半島には、徳本上人の揮毫による念仏供養塔が20基以上はあるとされている。
徳本上人とは庶民に信仰を広めるため、わずかな布施をたよりに全国を行脚し、ただひたすら「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えることにより人々は救われると説いた。
徳本上人じたいは江戸時代の人であるが、帰依した信者が望めば「南無阿弥陀仏」の名号を書き、または供養塔を建てて、念仏の布教に生涯を捧げたとされている。
(和歌山県日高町公式サイトより)
ここ福泉寺にも徳本上人揮毫の「南無阿弥陀仏」の石塔が建つ。
独特で個性的な筆使いはもとより、一番下に「徳本」と書かれているので実に分かりやすい。
徳本上人は今でいう和歌山県に生まれた。4歳にして兄を亡くし、世の無常を嘆いて9歳で出家を志したというから驚きである。
しかし親の反対にあい、実際に出家を果たしたのは27歳になってからであった。
徳本上人は京都で法然上人の旧蹟を参拝すると、諸国を旅しながら南無阿弥陀仏を唱え、布教に尽力した。そこで浅草の増上寺の大僧正が徳本上人への関東招聘を願っていたので徳本上人は感激して応じ、関東へと旅立った。
文化11年(1814年)、摂津から京都を通り、桑名、島田、箱根、鎌倉と歩を進めて神奈川の宿を通り、江戸は小石川の伝通院に宿泊されたとされている。
その後は鎌倉から三浦半島へ立ち寄り、三浦半島の各所で布教の旅を続けられたのだそうだ。
三浦半島を歩いては、浄土宗の寺々を訪ねては村人を集め、念仏を唱えることの功徳と仏の教えに時を尽くされたことであろう。
歩いて諸国を旅することが実に困難だった時代、この福泉寺にも六十六部の供養碑が建てられ、仏のみちを志しながら半ばで無念に斃れた回国行者たちの悲哀をさそうようである。
また、ご住職のおっしゃるには観音像に見えるが実は隠れキリシタンの信仰した隠れマリア像である、という石仏もある。
徳本上人は、文政元年(1818年)、江戸の小石川で61歳の生涯を閉じられるまで、各地を巡り念仏を唱え、一人でも多くの民衆を仏道に導こうと回国行脚の旅を続けられた。
この類まれなる上人の信仰の深さは他の追随をまったく許さず、没後200年たった現在でも三浦半島のそこかしこで徳本上人の揮毫の石碑は人々を見守り、今なお道に迷う民衆を仏の道へと誘わんとしているかのようである。