JR東海道線、国府津駅の北側を東西に走る「やまゆりライン」から分岐する道のうち、道沿いに王子神社や吉祥院が並ぶ、昼なお寂しい山道がある。
この山道をバイクで走るうちに、やがて大きく東側にカーブするところがあるが、そのカーブの片隅にはひっそりとした慰霊碑が残されており、これこそがお国のためにと孤軍奮戦し、惜しむべくかな名誉の戦死をされた上原重雄陸軍中佐の慰霊碑なのである。
戦争も終わりに近づいた昭和20年2月16日。
相模湾沖に進行した航空母艦から、グラマン戦闘機延べ600機が関東地区に襲い掛かった。
硫黄島の上陸作戦を目前にした、米軍の本土目標に対する超低空からの集団攻撃であり、翌17日には、関東地方は朝から空襲警報のサイレンに包まれていたという。
午前10時頃、攻撃を終えて南下してきた暗緑色のグラマン機の大編隊の群に、単機捨身で突入した日本軍機があった。
単身で孤軍奮闘するも、さすがに600機という数にかなわず日本軍機は小田原市小竹上空で被弾した。
いちど相模湾上で反転して飛行場への帰還に挑んだものの、迫りくる敵機にトドメを刺されて機体は炎上し、操縦士は天蓋から身を乗り出すと北方の基地、次に皇居に両手を上げて別れを告げ、そのまま機とともに壮烈な戦死を遂げられたのである。
その姿は当地の人々の記憶に鮮烈に残った。
戦死した搭乗者は鹿児島県出身、若干28歳の首都防衛飛行第22戦隊長、上原重雄中佐(大尉から2階級特進)であった。
上原中佐は陸士第52期の卒業で、スマトラ島のパレンバン航空隊を拠点として遠くニューギニア戦線までも遠征し数々の功績をあげ、特にB17爆撃機の迎撃には偉勲の戦士と言われている。
前年に内地に帰り、兵庫県の加古川航空隊で教育にあたっていたが、昭和20年1月に愛甲郡愛川町中津にあった第22航空戦隊長として着任したばかりであった。
当日は部隊が朝鮮の平壌に移駐が決まり、軍は迎撃中止を命じていた。
しかし、我が物顔に神地を踏み荒らす敵機の横暴な振る舞いはとうてい座視して許されるものではなく、はやる部下隊員を掩体壕になだめおいて、自らは義憤の単機発進をされたのだろうと語り継がれている。
現在、墓地の記念碑は搭乗機「疾風」(隼とも)のプロペラ4枚のなかの1枚が使われている。
実際に墜落したのは、ここから2キロ離れた山の上であった。そこに墓(慰霊碑)が建てられ、放置されていたプロペラで慰霊碑が作られたのは昭和28年のことである。
それ以来、上原中佐も沼代地区の戦没者として、沼代地区戦没者遺族会が慰霊を続けてきたという。
しかし、遺族会の高齢化もあり、山の上にあっては行くことすら困難で、掃除や枝打ちなど作業どころの話ではなくなってきていた。
さらに、墜落現場は他人の土地なので、建立者の家族もいつかは返さなくてはと考えていたそうであり、平成22年に現在の道路沿いの場所に移転されたのだという。
かつては上原中佐の遺族も訪れていたそうだが、高齢と体調を崩されて、これが最後として平成19年に娘さんが来られたのだという。
今、この地から見下ろす里は平和そのものであり、飛ぶものは小鳥、聞こえてくるのは遠くの石焼き芋屋の声だけといった牧歌的な風景がひろがっているが、かつてここには空襲警報がこだまし、多くの敵機に単身挑んでいった日本軍機が火だるまとなり墜落していく光景が繰り広げられていた事を思い起こすとき、ここにも平和のありがたさと祖国の為に一命をなげうった若き操縦士の偉勲が思い起こされ、ゆがんだプロペラの慰霊碑にしばし手を合わせるのである。