伊豆箱根鉄道大雄山線の終点である大雄山駅の前の通りを北側に進むと、時宗の寺院である龍澤山 吉祥院 龍福寺があります。
このお寺は、一遍上人を開祖と仰ぐ時宗の念仏道場として、二代目真教上人により永仁6年(1298年)に開かれた歴史のあるお寺です。
このお寺の境内には、見上げるような高さの石碑が建てられていますが、これは農民の苦難を救った、義人と呼ばれる下田隼人を顕彰する石碑です。
この下田隼人という人は、いったいどんな人物だったのでしょうか。
むかし、江戸時代の初めのころの話だそうです。
当時、小田原、足柄上・下郡は小田原城の領地でした。
この頃の小田原城の城主、すわなち相州小田原藩主は稲葉正則という人で、あの有名な春日局の孫にあたります。
当時、小田原藩では農民たちが汗水たらして作った米はそのほとんどが年貢として取り立てられ、農民は自分で作った米すら食べられず、粟やヒエばかりを食べていたといいます。
折しも、この前後に寛永の大飢饉が起き、日本中が飢えに苦しんでいた時です。
そんな時に「寛永小田原地震」が起き、小田原城にも大きな被害を及ぼします。
石垣は崩れ、門は落ち、さらに民家も多く倒れて150名を越す犠牲者を出したと言います。
ただでさえ苦しい生活のうえに、城を修復するためにさらに重い年貢をかけようとした役人たちでしたが、農民だって食うや食わずですから、思うように年貢は集まらなかったのです。
そこで、役人は、農民が冬を越すために蓄えていた麦も徴収するお触れを出しましたが、この麦まで取り上げられては農民は生きていくことはできません。
ただちに各村の名主が集まり、麦だけは見逃してくれるようにと直訴するのですが、取り合ってもらえるはずもありませんでした。
そこで、西郡(にしごおり)36村の名主の代表であった下田隼人も、麦だけは免除してもらえるように役人に直訴に行ったのです。しかし、返ってきた答えは「これ以上逆らうのであれば、百姓一揆の首謀者と見なして処罰する」という無茶苦茶なものでした。
その話を聞いた農民たちは、それならいっそのこと、本当に百姓一揆を起こそうと鍬や鎌を持ち出して気勢を上げる始末です。
下田隼人は農民たちをなだめ、なんとか解散させましたが、ではどうすればよいのか。
思い悩む下田隼人がとった手段は、役人の手を介さずに直接の藩主である稲葉正則に直訴するという強硬なものでした。
万治2年(1659年)のある日、小田原城を出て飯泉観音に参詣する稲葉正則の駕籠に駆け寄った下田隼人は、竿の先につけた靖文を竿の先につけて差し出しました。
この直訴の手段は、通常の裁判上の手続をとらずに、幕府の有力者や大名が駕籠で通過する場所に待受けて訴状を出すことで、当時は厳しく禁じられていたことです。
これを行えば死罪は免れませんでしたが、訴えが直接権力者の目に入ることから、もっとも効果的な手段でもあったのです。
この訴えが功を奏し、麦の取り立ては取りやめとなりました。
そのために多くの農民が命拾いしたのですが、下田隼人は捕らえられて家屋敷はおろか田畑はすべて没収された上で死罪とされたのです。
この下田隼人の立派な行いは現代に至るまで語り継がれ、ついに大正11年、地元の人々から募られた浄財をもって立派な顕彰碑が建てられたのだといいます。
いま、時は流れ流れて江戸時代よりも豊かで平和な時代を謳歌している我々ですが、このような一見平和な街の、静かなお寺にも、このような歴史のドラマが残されていることに驚かされます。
我が身を賭して数多の農民を救った下田隼人は、現在の世の中をどのような気持ちで眺めていることでしょう。
いま、早春の風がさわやかに流れる寺の境内を歩き、この顕彰碑を見上げて静かに手を合わせるとき、下田隼人が竹竿を差し出しながら駕籠の前にひれ伏し連行されていく姿や、その偉勲を偲んで涙する名もなき農民たちのことが、まるで昨日のことのように思い出されるのです。