田園地帯をのどかに走るJR相模線の、宮山駅から東側に1.4キロくらい離れた住宅の中に、浄土宗の清浄山 念宗寺という小さなお寺がある。
この念宗寺は開創は慶長、すなわち戦国時代から江戸時代にかけてであるから、なかなかの古い歴史を持つ寺である事がわかるのである。
このお寺の本堂は小さく、その造りは決して豪奢なものとは言えないのであるが、その脇には本堂より何倍も立派な庫裏のような建物がある。これがもし本当に庫裏であれば、本堂ももう少しきれいにしてあげればよいのに、と思う。
この念宗寺には、今となっては語る人も少ないものの、境内には雉子稲荷と呼ばれる小さな稲荷社があり、これこそが念宗寺の住職と狐をめぐる、実に不思議な物語の舞台なのである。
昔むかしの事である。
境内の掃き掃除は、念宗寺の坊さんの日課であった。今日もいつものように境内を掃き清めていると、キツネが一匹、大きな鳥をくわえて歩いているのが目に入った。
このどろぼうギツネめ、待たんかっ!! っと大声を出して坊さんが追いかけてくるものだから、キツネはすっかり驚いて、せっかくの獲物を落として逃げていったしまった。
坊さんが鳥を抱き上げてみると、それは山に住む大きなキジで、すでに首を噛み切られて息耐えていたのである。
「せっかく同じ山に生まれて暮らしておるのに、山のキツネが山のキジを殺して食うとは因果な話じゃ」と、哀れに思った坊さんは、キジを埋めて丁重に葬ったのである。
しかし、この様子をこっそりと眺めていた村の若い衆、久兵衛、太七、茂十の3人は、あんな大きくて立派なキジを埋めてしまうのはもったいない、掘り出して夜にでも食べてしまおう、今埋めたばかりならば今捕ってきたも同じこと───と、木の陰でコソコソと算段をはじめ、坊さんが帰っていくのを見計らっては掘り出して持ち帰ってしまったのである。
3人はさっそくキジを料理した。
あまりにも大きなキジだったので料理は鍋いっぱいになり、男3人が腹いっぱい食べてもとても食べ切れそうになかった。
そこで、残った料理を前にして、茂十が「こいつはやはり寺の坊さんが供養したキジだ。おらたちだけで食ってしまえば祟りがあるといけねぇ。どうだ、坊さんにも食わしてみたら祟りもあるめぇ」と切り出したのである。
ほかの2人も、その事はうすうす気にしていたようで、「そうだ、そうだ、それはいい」と賛成するが早いか3人は、余りものの料理を皿に盛って寺へ持っていくと、「和尚さん、今日は鶏肉をもらいまして。あまりにうまいので、少しおすそわけに・・・」と坊さんに食わせようとした。
最初、坊さんは「私は仏につかえる身、気持ちはありがたいが畜生の肉をいただく事はできませぬ」と頑なに拒んでいたが、少しくらいなら仏様も見逃してくださるでしょうと余りに熱心に勧められたので、とうとう一口、味見してしまったのである。
その瞬間を、キツネが見逃すはずがなかった。
いちばん収まらないのは当のキツネである。せっかくの獲物を横取りされたのだ。食い物の恨みは恐ろしい。キツネは3人の後をずっとつけては、その様子を悔しそうに眺めているのであった。
その晩から、キツネは毎晩のように寺へやってきては
「食うやった、食うやった、キジの肉を食うやった、なまくら坊主が食うやった」と大声で歌い、それは村人たちの間でもうわさになり始めた。
ほとほと困った坊さんはキツネに頭を下げ、自分が味見したのはキジではなくニワトリだし、もう心を入れ替えるからその歌はやめてくれと願い出たが、坊さんが食べたのは自らが葬ったキジである事をキツネから聞かされると、坊さんは衝撃のあまり、その場に座りこんでしまい声も出なかったのだという。
すっかり反省した坊さんはキツネに頭を下げて許しを乞い、「お前さまとキジを祀る稲荷さまを建ててやろう。それでお前たちは神様の使いじゃ。それで何とか許してくれないか」と申し出たのである。
神さまのお使いになれると言われたキツネは喜んで山へ帰っていくと、もう姿を現すことはなかった。そして、この寺の境内に建てられたのがこの「きじ稲荷」だという事である。
もともと、この稲荷社は本堂の脇の大木の陰にひっそりとあったが、近年になって大木が枯れたのを機に門前に移されたものである。
境内には、この念宗寺の歴代上人の墓が残されており、この物語に出てくる御住職もここに葬られているのかなと思うと、なにやら感慨深いものを感じさせられる。
いま、この訪れる人もまばらな小さなお寺の、片隅にひっそりと祭られた小さな稲荷社に向き合って手を合わせるとき、この村で語り継がれてきたキジとキツネのお話が脳裏に浮かんでくるようで、一抹の感慨を覚えるのである。