みうけんのヨコハマ原付紀行

愛車はヤマハのシグナスX。原付またいで、見たり聞いたり食べ歩いたり。風にまかせてただひたすらに、ふるさと横浜とその近辺を巡ります。※現在アップしている「歴史と民話とツーリング」の記事は緊急事態宣言発令前に取材したものです。

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悲運の妃 照玉姫の霊を慰める 上臈塚の伝説(横浜市栄区)

JR根岸線本郷台駅駅前通りを南下し、栄区図書館の裏側にある小高い丘を登って行くと、しだいに道は細くなって生活道路となり、地元の人しか歩かないような閑静な住宅地へと変わるが、このあたりは公田(くでん)と呼ばれて横浜市の難読地名の一つにも数えられている。

 

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この公田町の細い路地の脇に伸びる石段を上がっていくと、佇むのは猫だけという寂しい墓地があるが、その片隅にひっそりと塚が眠り、その周囲を墓石が取り囲むように建っているのが見てとれる。

 

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この塚は由来の説明版も何もない小さな塚であるが、この塚は上臈塚(じょうろうづか)と呼ばれており、これこそが桓武天皇の皇子であった葛原親王(かずらわらしんのう)の妃、照玉姫(てるたまひめ)の悲運を今に語る塚なのである。

 

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上臈塚に使われている「臈」という漢字は、元は高僧や高い地位にある者のことを言い、それが転じて貴婦人や身分の高い女官を意味するところであるが、後には高貴な身分とは程遠い存在である下級の遊女や女郎を意味する文字としても使われるようになったという。

 

このあたりは横浜市になる前、かつては鎌倉郡と呼ばれていた。

まぎれもなく古都鎌倉の一部であり、それに従うように鎌倉独特の墳墓である「やぐら」がここ公田にも多く残されている。

 

かつて、源頼朝が幕府を開く以前の鎌倉近辺は「鎌倉党」が支配する地であった。

鎌倉党というのはその成立などに諸説あって一定していないものの、桓武天皇の子孫である葛原親王から平高望王へと下り、村岡五郎良文を経て鎌倉権五郎景政につながっていき、鎌倉権五郎景政の逸話については過去にも紹介した通りである。

 

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このうち、大庭あたりに分家した子孫が大庭氏を、梶原に分家した子孫が梶原氏を、俣野にいる子孫が俣野氏を名乗り、彼らが鎌倉幕府の成立する以前には鎌倉党として鎌倉の地を治めていたのである。

 

このうち、上記の赤字で示した葛原親王の妃が照玉姫であったとされる。

葛原親王長岡京で生まれるが、のちに妃の照玉姫と東国に下向した。

 

葛原親王と照玉姫は決して驕り高ぶることなく慎み深い性格で、誰からも愛されていたが、ある日東国を巡幸しているさなか、公田の地を通りかかった頃に照玉姫が病となったため、そのまま留まることとなった。

 

葛原親王はじめ多くの従者が手を尽くして看病したが、照玉姫はそのまま還らぬ人となってしまった。

今から1200年近くも前、天長元年(824年)のことである。

 

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葛原親王や従者はもとより里人たちまでもが大いに嘆き悲しみ、その号泣は七日にわたって村中を多い尽くし、中には後を追う者まで出るという騒ぎであったが、里人たちは眺めの良い丘の上に照玉姫の塚を築いて手厚く供養すると、照玉姫の侍女であった相模局、大和局の両名が墓守となって塚を守り続けたのだという。

 

その後2人の侍女も亡くなって、照玉姫の塚の両脇に小さな塚が作られて両塚明神として崇めたと伝えられるが、すでに両塚は失われておりその所在は分からなくなっている。

 

この伝承は永らく里人たちが口伝するところであったが、のちの戦国時代末期、文禄元年(1592年)に信永という修行僧が公田村を通りかかった際、何やら聞こえる女性の声に導かれて3つの塚の前にたどり着くと、村人から照玉姫と2人の次女の話を聞かされ、その女性の声が照玉姫の声であることを察したのだという。

 

この話に大いに感銘を受けた信永は塚のそばに神社を建ててまつり、これが現在の皇女神社(こうじょじんじゃ)とされているのである。


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 その後、日本は江戸時代の天下泰平を謳歌し、文明開化の記憶が残る明治42年(1909年)に、明治政府の1村1社政策により皇女神社を含む近隣の小社4社が神明社に合祀された。

 

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現在、かつては尼寺であったとされる、上臈塚のある高台には天上、人間、修羅、餓鬼、畜生、地獄の六道を輪廻転生する亡者を救わんとされる六地蔵が物寂しげにお立ちになり、また塚の周囲は墓地となり、古い墓石は参りに来る人もなく、横倒しになっている。


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いま、この草むし墓石が寄りかかる上臈塚の前に一人立ち、遠くに聞こえてくるヒグラシの蝉時雨を聞きながら静かに手を合わせる時、かつてこの里を愛し里人から愛された葛原親王と照玉姫の睦まじい姿が目に浮かぶようで、また照玉姫の遺徳を忍ぶ村人たちがこの塚の前に平伏し泣く姿が見えてくるようで、ここにも時の流れのはかなさをそくそくと感じるのである。

 

 

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