相鉄線のいずみ中央駅の前を通るのは、戸塚から長後を結ぶ長後街道で、今となっては拡幅されて交通量も多い地元の大動脈となっている。
この長後街道は、かつては大山みちや八王子街道、戸塚みちとも呼ばれており、現在でもワークマンの裏手には細い旧道が残されているのを見ることができる。
文明開化の後、日本は急速な近代化を志向して列強の仲間入りを果たすべく外貨稼ぎに奔走した。
その先鋒となったのが明治時代から昭和初期にかけて盛んに営まれた養蚕と生糸産業であり、現在のJR横浜線はもともとは生糸生産地から横浜港へ生糸を運び輸出するための貨物線であったし、日露戦争を勝利に導いた戦艦三笠や、旅順要塞攻略戦で攻城砲として活躍した28センチ砲などは、生糸産業によって稼いだ外貨を無くしては得られなかったと言っても過言ではないという。
話を戻して、この長後街道の近辺である藤沢市北部・横浜市泉区・瀬谷区周辺でも養蚕業が極めて盛んであり、長後街道の周辺にはたくさんの製糸工場も操業した。
そうなると、この長後街道も生糸の運搬に重要な役割を果たし、生産された生糸は次々と大八車で戸塚へと運ばれ、そこから東海道線に乗って、あるいは牛馬の引く荷車で横浜港へと運ばれては貨物船に載せられて海外へと輸出されて行ったのだという。
ここ泉区和泉町にある「蚕御霊神塔」は、そんな時代のさなかに「おカイコさま」と呼ばれ神聖視までされたカイコの霊を祀るものである。
この地域だけではなく、養蚕業が盛んだった地域には数多くの蚕霊供養塔が建立され、上飯田の三柱神社境内には明治29年に建立されたものがひっそりと佇んでいるが、探せばまだまだ発見できるのであろう。
古来の日本人にとっては、虫は決して遠い存在ではなかった。
人間の悪行を包み隠さず閻魔大王に報告するのも虫であり、古く武家の旗印にはムカデや蝶が描かれ、秋には鈴虫が、初夏にはホタルが愛でられ、時には貴重なタンパク源として食卓にものぼり、さらに生糸を吐いては国家の財政を潤し列強諸国の仲間入りを果たすきっかけをも作ったのである。
また、この供養塔の側面は大山不動に詣でる者に大山道を示す道標も兼ねており、側面には「大山道」の文字とともに写実的な二本指で方向を示した手の線画が刻まれている実に珍しいものである。
現代となっては虫はすっかり嫌われ、何も悪いこともしていないのに、しばしば駆除の対象とされてしまっているが、かつての日本人はカイコを「おカイコさま」と呼び、神聖視して人間よりも尊しとした。
カイコを育てるカイコ棚は家の中でも人間が住むスペースより高く作られ、正月になれば御神酒が供えられ、カイコは食べもしないのに餅まで供えたという。
いま、この蚕霊供養塔の前に立つとき、そう遠くない明治の昔に生きた人の、森羅万象に対する畏れと敬慕が思い起こされてくるようであるが、八百万の神をも省みる暇すらない現代人の暮らしぶりを、神様はどのようにお思いだろうかと考えるとき、時代の流れと人々の意識の変化をただただ虚しく感じるのである。