小田急線の座間駅近辺は、今となっては閑静な住宅街となり東京や横浜のベッドタウンとして宅地開発も著しく、発展する海老名の駅前と合わせて日々その姿を変えつつある。
その住宅街を蛇のようにうねりながら貫いて行く目久尻川の、かつては農業用の用水として使われていたのであろう水路が街のいたるところに張りめぐらされ、静かな街にせせらぎの音色が木霊してその風流さに一層の輝きを与えているのである。
この近くには、護王姫大明神と呼ばれる小さな神社があり、その脇には今なお大きな御神木が植えられているが、これこそが悲劇のヒロインとなる「護王姫」をまつる慰霊の碑なのだという。
護王姫は、もともとは「牛王姫」と表記するが読みはどちらも「ごおうひめ」であり、源義経の側室であった。
源義経が、兄である源頼朝と対立して破れると、鎌倉を捨てて奥州平泉へ逃れていった。
身重だった牛王姫は夫の後を追うが、現代のように通信手段も地図も発達していないころであり、さんざ彷徨った挙句に近くの里で産気づくと、それまでの無理がたたったのか難産の末に我が子と共に亡くなってしまったのだという。
この護王姫と幼子の最期を哀れに思った里人は、塚を築き墓標の代わりとしてケヤキを植えて墓標の代わりとし、二人をねんごろに葬ったが、この時のケヤキが今なお社殿の横に息づいているのである。
時は流れ、近くにある休息山円教寺で日蓮聖人がご休息された際、住職の日範上人より哀れな護王姫の話を聞き、墓前で読経してもらい、これからは安産の神となるようにと護王姫大明神という名をお付けになり、神社として祀ったのだという。
この護王姫大明神は、江戸の時代までは円教寺で守られていたが、明治維新の後は檀家総代である星野家で管理されているという。
また、ここから少し離れ、海老名市の静かな住宅街を歩いて行くと小さな祠の中に小さな石仏が安置されているのが見てとれる。
こちらは永享10年(1438年)の永享の乱のおり、戦いに敗れた一色伊予守六郎が海老名一族の残党と共に今泉館で再挙を計ったが幕府側に敗れ、落ち延びる際に護王姫が産気づき子供を出産したが、母子ともに亡くなったという伝説が残され、いくつかの馬頭観音像と六十六部の供養塔と並んでひっそりと人々の歩みを見守っているのである。
このように、護王姫については源義経の側室、一色六郎の側室、畠山重忠の側室など諸説あるが、どちらにしても旅のさなかにこの地で産気づいて難産の末に帰らぬ人となった女と子がおり、その霊を慰めるべくしてのちの世になって慰霊碑が立てられ、悲しい伝説とともに里人たちから大切に守られてきたのであろう。
また、この地が街道の辻=分かれ道であることを示すかのように、今なお数々の馬頭観音や道しるべ、六十六部の供養塔などが並び、交通手段が発達していなかったころに旅をする事の辛さを今に伝えているかのようである。
いま、この近くには昔と少しも変わることのない目久尻川の流れと、静寂の中にわずかな水音を奏でる用水路のせせらぎだけが営まれては、川沿いに咲いた花のように哀れに散った護王姫の悲哀を今に伝えているかのようである。
いま、この河原から眺める川面と、艶やかに咲いた花を眺めるとき、戦乱に翻弄されて夫に会うこともかなわず、愛すべきわが子と無念の中に息絶えていった哀れな護王姫の心中が思い起こされ、ここにも生きる事と世の無常をひしひしと感じるのである。