みうけんのヨコハマ原付紀行

愛車はヤマハのJog・CE50。時速30キロで見たり聞いたり食べ歩いたり。風にまかせてただひたすらに、ふるさと横浜とその近辺を巡ります。

今なお残る六十六部巡礼者の慰霊碑と悲話(三浦市)

三浦半島京浜急行の終点、三崎口駅から少し南下すると国道134号線に「三戸入口」という交差点があり、この交差点から三戸浜海岸へ続くカーブした道が通称「御用邸道路」である。

 

昭和初期、海洋生物の研究に熱心であった昭和天皇が、海洋生物がとりわけ豊富な初声町三戸の光照寺近辺に研究用の御用邸の建設を所望され、その工事のために建設された道路が通称「御用邸道路」、いわゆる三戸入口交差点から光照寺近辺をむすぶ市道17号線である。

結局は昭和恐慌のために御用邸は建設されなかったが、三戸入口の交差点を入りこの道を西に進むと、ほどなくして人気もまばらな三戸浜海岸に出ることができる。

 

f:id:yokohamamiuken:20190306105340j:image

 

この三戸浜海岸の北側の道路沿いには、カーブミラーの根元にひっそりと石碑がたっており、車に乗っていてはうっかり気づかずに通過してしまいそうな石碑である。

この、決して目立たずひっそりとたたずむ小さな石碑こそ、いまなお悲しい六十六部の伝説を伝える証なのである。

 

 

六十六部とは、江戸時代に隆盛を極めた信仰の一種であり、現世の罪も前世の宿業(しゅくごう=前世で犯してしまった色々な罪)も、全て滅ぼすためにおこなう回国六十六部の巡礼である。

現在は47都道府県に分類されている日本も、かつては66の国に分かれていた。そのすべての国、すなわち日本全土に散らばる一之宮と国分寺など詣でれば、すべての罪が洗い流されると信じられていた。

たとえば、現在の神奈川県であれば当時は武蔵の国と相模の国である。

当時、今でいう出版社は数多くあり、その出版元によって巡礼する場所が違ったりするというアバウトさもあったが、たとえば「大乗妙典納所六十六部縁記」に所収されている「一国一宮・国分寺霊場・一国三部納経所」によれば、

武蔵の国・・うへのとうゑいさん・あたち郡ひかわの明神・たまの郡こくふんじ

相模の国・・かまくらの八まんくう・高さ郡さむかはの明神・おなし郡こくふんし

となっている。

 

詳細な地図もスマホもなかった時代に、すべてを徒歩で歩くわけであるから容易な旅ではない。途中で病になり行き倒れとなるもの、旅行費が底をつき飢えるものもいれば、日本全国の旅をするだけの路銀を携えた巡礼者を狙う山賊もいて、その旅は決して容易ではなく、無念の中で斃れて行った巡礼者を悼む六十六部の供養碑は、いまなお全国に多く残されているのである。


f:id:yokohamamiuken:20190306105359j:image

 

この石碑に近づくと、意外にも碑文はハッキリと残っており、その中に「奉納大乗妙典六十六部塔」とあり、文化元年(1804年)との年号を読み取ることができる。


f:id:yokohamamiuken:20190306105353j:image

 

この、三戸海岸の路傍にたたずむ三戸の集落には、いまなおこの碑にまつわる悲しい言い伝えが残っている。

 

その巡礼者がこの村についたのは、今から200年以上前の江戸末期、文化元年(1804年)の真冬であった。

その巡礼者は弘法大師を信奉する信者で白装束を見にまとい笠と杖を身に付けた巡礼姿で、一夜の宿を求めてきた。

当時、巡礼者には親切にする習わしがあったので、この村の住民はさっそく家へと招き入れ、宿を提供したばかりかわらじや米を施して接待した。

 

しかし、その巡礼者は病を患っており、そのまま病床に臥すとほどなくして息を引き取ってしまったのである。

村人はその巡礼者の死を哀れに思い、その身に付けていた白装束などと共にこの地に埋め、この碑を建てて手厚く葬ったのだという。

 

また、この石碑から南東に2.5キロほどいったところ、三崎警察署前の交差点をすぎたところに、小さな祠が建ち文字の判別もあやうい小さな石碑が祀られている。

 

 
f:id:yokohamamiuken:20190306105404j:image
f:id:yokohamamiuken:20190306105347j:image

 

この石碑には「六十六部回国正念上座」と刻まれているのだが、この石碑は「六万本の六部さま」と呼ばれ、古くから崇敬の対象となっているとされる。


f:id:yokohamamiuken:20190306105416j:image

 

かつて、このあたりは森が深く、杉の木が数え切れないほどあったことから、六万本という字がついた。その木々はうっそうとして昼なお薄暗く、近寄るものすらいない淋しい山林であり、里人や旅人はしばしば山賊や追いはぎの被害にあったという。

 

宝暦3年(1754年)、冬の寒い日に江戸に住む寂光という六部が、この道をとおりかかった時に運悪く盗賊に襲われ、丸裸にされて殺されてしまった。

村人たちはこの六部の死を悼み、この道すじに手厚く葬ると供養塔を建立し、ねんごろに弔ったのだとされる。

 

その事件から260余年経った今でも里人の信仰は衰えず、この供養碑の前を通るとき、いまなお新しい花や線香が手向けられているのを目にすることができる。

 

三浦半島には、このような六十六部を祀る供養塔が多く残るが、その一つ一つの前に立つとき、自らの罪業を滅し功徳を積まんとする古の巡礼者の、なしえなかった無念と悲しみが思い起こされ、ただただ ひとすじの涙を誘うのである。