横須賀は浦賀湾の西側にある西叶神社には、銅製の灯籠とともに手水鉢が並べられているが、このどちらも寄進者は江戸屋半五郎という人である。
時は今からさかのぼって江戸時代の中ごろである。
伊豆から浦賀へ番所が移転してくると、各地から多くの船が出入りするようになり、浦賀は一大港湾の様相を見せて賑やかな港町となった。
賑やかな町にはなくてはならないのが遊女屋であり、ただその出願はあくまでも洗濯屋と宿屋を兼ねたものであり、手元の資料にだけでも江戸屋、鶴屋、亀屋などの名前が並んでいる。
この中の江戸屋の主人であった江戸屋半五郎は義侠心に富み、またその豪放な性格もあいまって「洗濯屋」は繁盛して贅沢三昧の生活を楽しんでいたという。
しかし、ある日江戸屋半五郎は江戸に出かけた際に一人の僧の辻説法を聞いて、この世の無常さとはかなさをこんこんと説かれて神妙な顔つきで帰ってきたという。
それから、半五郎は家の遊女たちを集めると、家業を閉じることを継げてあるだけの金を遊女に配って解放してしまい、江戸屋の看板も下ろして京都に赴くと、仏門に入り名を深心と改めたのである。
こうして遊行僧となった半五郎は諸国を巡り歩くうちに、過去にも紹介した徳本上人(三戸の福泉寺に残る隠れキリシタンのマリア像と徳本上人の揮毫石塔(三浦市) -参照
)に出会って師事し、名を「深本」と改めて浦賀に帰ってきたのであるが、蟹田橋のたもとに草庵を結んで念仏を唱える日々を送るうち、文化6年(1809年)の春の日、眠るように波乱に満ちた生涯を閉じたのである。61歳であった。
いま、西浦賀の常福寺を訪れて墓地の中を探すと、「奉納大乗妙典六十六部供養」の日が建っているのを見ることができるが、その横には紛れもなく「総願主 江戸屋半五郎事、深心法子」と刻まれている。
また、その近くには「大誉果向深本法子」と陰刻された江戸屋半五郎の墓が建ち、往時を偲ばせているのである。
洗濯屋という遊女屋で財をなし、神社に寄進をするまでに豊かな人生を送っていた江戸屋半五郎であったが、その波乱に満ちた生涯は今でも語り草となり、浦賀の奉行所が廃止されるとともに洗濯屋も無くなってしまったいま、人の世の栄枯盛衰の昔がたりとなって今なお浦賀の人々の心に生き続けているのである。