みうけんのヨコハマ原付紀行

愛車はヤマハのシグナスX。原付またいで、見たり聞いたり食べ歩いたり。風にまかせてただひたすらに、ふるさと横浜とその近辺を巡ります。※現在アップしている「歴史と民話とツーリング」の記事は緊急事態宣言発令前に取材したものです。

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久比里坂の難所と今なお民を守る火伏せ不動尊(横須賀市)

横須賀の尻こすり坂通りを南下し、京急久里浜駅の南側で山側に入ると浄土宗の古刹である亀養山長安寺があり、境内の脇には三浦不動霊場の札所の不動堂もある。

 

 

このお寺の本堂は実に堂々として立派であり、それだけでも一見の価値はあるのであるが、その周囲にはインドや西国の様式を生かした仏教彫刻がはめ込まれ、その美しさに心奪われるうちに、さながら東南アジアや西域シルクロードの仏教国に旅行に来ているかのような錯覚さえ受けるのである。


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本堂にお参りしたうえで彫刻を一通り眺め、歩みを元に戻すと山門の脇に忠魂碑や大震災供養塔にはさまれた小さな石祠があり、その中には石で造られた一体の不動明王坐像が祀られているのが見て取れる。


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この石造りの不動明王はもともと横須賀市久比里の久比里坂を上った所の高い山の上にあった。

しかしこの久比里坂を改修する工事の際に、この長安寺に移されたのだという。

 

この不動尊は昔から火伏せのお不動様と親しまれ、特に火災から家を守るという霊験あらたかで、今でも地元の信心を集めているという事である。

 

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昔、長安寺近くに檀家の三留家という家が近くにあった。

この三留家は地域でも指折りの地主であったが、文化二年(1805)に松太郎という子が生まれたものの、松太郎は次男であり家を継げなかったために齢13にして単身で江戸・浜町のしにせ「尾張屋質店」に奉公に入り商売のイロハを身に付けることとなる。

 

この時、江戸に赴く前に生家の庭に一本の松の苗を植え、 「おまえと私とどちらの出世が早いか競争しようではないか」と語りかけて江戸へと旅立ったのだという。

 

右も左も分からぬ慣れない江戸での奉公のなか、必死の努力で類まれなる商才の頭角を現した松太郎を見込んだ主人は、長女と松太郎を結婚させると第四代目当主の峯島茂兵衛(みねしまもへえ)を襲名し、店を継いだのである。

 

当主となりさらに商才を発揮した峯島茂兵衛は、土地の売買や倉庫業などでたちまち財を成し、江戸の各地に出店をつくり、家業を拡張して尾張屋質店の名を江戸じゅうに広めたのである。

 

いっぽう、この近くの久比里坂は今のように広くなだらかに切り開かれてはおらず、馬や人が時おり転げ落ちては亡くなってしまうほどの急坂だったと言われ、大変な難所として知られる坂であったという。

 

その村人たちの難儀する姿をかねてより気にかけていた峯島茂兵衛は、明治四年の秋にこの坂の開削工事を思いつき、資材を投じて延べ八千人もの人力をも投じて、この坂の開削を無事に成功させた。

 

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現在、その坂をたくさんの車が通り過ぎて行く中で、坂の傍らには誰にも気づかれることもない小さな記念碑がひっそりと建っているのを見る事が出来る。

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峯島茂兵衛は、さらに交通の安全と守護を願って不動明王像を祀ろうと思いつき、明治23年に東京は京橋紺屋町の石工、木村藤兵衛にこの不動明王の制作を依頼した。

 

藤兵衛は不動経を唱えながら一心にノミをふるい、毎夜おそくまで作業を続けていたある日、突然近所から火事が発生した。

 

火は強風に煽られてみるみるうちに街を呑み込み、付近一帯は焼け野原となる大火となってしまったが、石工の家だけはポツンと焼け残り、人々は石工の普段からの信仰心によって大火から守られたのだとして火伏の不動と呼ぶようになったのだという。

 

現在は、そのような由来の説明板も何もなく、ただ石祠の中に無言でたたずむお不動様であるが、平成から令和へと時代が変わった今なお多くの人々の信仰を集め、静かに人々の暮らしを守っているのである。

 

 

 

 

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