みうけんのヨコハマ原付紀行

愛車はヤマハのシグナスX。原付またいで、見たり聞いたり食べ歩いたり。風にまかせてただひたすらに、ふるさと横浜とその近辺を巡ります。※現在アップしている「歴史と民話とツーリング」の記事は緊急事態宣言発令前に取材したものです。

愛車はヤマハのシグナスX。 原付またいで、見たり聞いたり食べ歩いたり。
風にまかせてただひたすらに、ふるさと横浜とその近辺を巡ります。
※記事は基本的に毎日18時に更新です。

貧しさに散った20歳の小松原緑さんを想う

1983年、昭和58年。

そう聞いてピンと来る方は、きっと人生の半分を生き抜いてきた、人生の艱難辛苦をイヤという程味わってきた方々でしょう。

 

まさに、日本ではバブルの芽が見え始めていたころ。

景気は上向きで下がるという事を知らず、数年後にやってくる阿鼻叫喚のバブル崩壊など想像だにせず、誰もが好景気に浮かれていた時代でした。

 

そんな時期の新聞記事に、あれから35年もたった今でも、心の片隅について離れない記事があります。

まずは読んでいただきたい。

 

「都会の死角」~貧しさに散った20歳~
東京都千代田区内幸町二丁目の高層ビル(29階建て)から飛び降り自殺し、植え込みの中で23日、三カ月ぶりに見つかった品川区南品川二丁目、電気会 社勤務小松原緑さん(20)は、母子家庭で、一人東京に働きに出ていた。

秋田の実家に仕送りを続け、自分はぎりぎりの生活をしていた。貧しさに追い詰められてみずからの命を絶ったと見られている。

 

華やかな都会の陰の、孤独でみじめだった”青春”は、散ったあともビルの谷間の人の渦の中で、三カ月もさみしく土に埋もれていた。

 

警察の調べや周囲の人たちの話によると、緑さんは秋田市の高校を卒業後すぐ上京、一年間ほどバスガイドをしたあと臨時職員として現在の会社に入社し半年ほどで正社員になった。

 

毎月手取り七、八万円の収入で三、四万円を仕送りしていた。秋田の実家では早くに父親が病死し、母親と弟一人の母子家庭。

高校生のころに自分が一時、ぐれかけた後悔から、「母と弟を自分が支えねばならない」との強烈な責任感を感じていたようだ。

 

上京して以来、夜の外食はもちろん、スーパーや百貨店での買い物すら一度もしたことはなかったという。

社員寮でもそうめんやそばなどめん類ばかりの食事。

だれにも打ち明けられなかった。

 

9月21日、最初の失跡のあと、いったん戻った彼女に、寮の人たちがスパゲティや焼き肉をごちそうすると、「こんなごちそうは初めて。私は料理もほとんど知らないのよ」と恥ずかしそうに笑いながら喜んで食べた。

 

この時は、「銀座に出てビルの屋上に上ったけど怖くて死ねなかった」「奥多摩に行ったら、幸せそうな子ども連れの家族とすれ違い、親切にしてくれた管理人さん一家を思い出して戻って来た」と話していた。

 

「おとなしい内向的な子で、温かい家庭の愛情に飢えていた」と親しかった人は言う。

若い女性らしい飾りも無い、殺風景な暗い部屋。

 

9月25日、「カーテンをつけて気分を変えたら?」と勧められ、近くのスーパーに初めて連れて行かれたが、「六千円」の値札に二の足を踏んだ。

友人が予備に持っていた明るい色のカーテン布をプレゼントすると、喜んでレールを買って、数時間がかりでとりつけていた。が、その翌日失跡。二度と帰らなかった。

 

遺体がしっかり抱えていたバッグの中の所持金は十円玉21枚。
主の消えた部屋からは「色々ご親切にして頂きました。でももうこれ以上生きて行く気力がありません」との書き置きと、定期預金通帳(額面10万円)が残されていた。

 

「病気などの不時に備え、絶対に取っておきなさいね」とアドバイスされた直後、「実家の冷蔵庫が壊れて、すぐ送らねばならなくなった。私どうしたらいいの。どうにもならない・・・・・・」と頭を抱え込んでいた「トラの子」だった。

 

高さ百二十㍍の屋上から最後に見た大都市・東京の風景は、彼女の目にどう映ったのだろうか。
(1983年12月25日(日)、朝日新聞「ニュース三面鏡」)

 

いかがだったでしょううか。

もはや、多くを語る必要はないでしょう。

 

所持金は10円玉21枚。

その、たった210円を抱きしめて三ヶ月も冷たい土の中に埋もれていた。

すぐ脇をたくさんの人が歩く大都会東京の真ん中で、誰にも気づかれることもなく。

 

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いま、この緑さんが命を絶った20歳という年齢を振り返ってみます。

自らが20歳だった時、何をしていたんだろうかと。

 

みうけんが20歳だった頃はとっくにバブルも弾け、日本中が就職氷河期と大不況のまっただ中で喘いでいたころだったが、なんとか人並みに仕事もして収入もあり、ポケベルなんか買って、恋愛をして、さらに親元を離れて町田市でアパートを借りて1人暮らしを始めたころでした。

 

社会に対して、なんら大きな不安もなく、不満もなく、衣食住以上のものを持っていたように思い、その末に今の安定した暮らしがあるのだと思います。

 

もし、自分がこの小松原緑さんのような境遇であったならば、今頃どのような人生を歩んでいたでしょう。

毎月7,8万円の手取りから3、4万円を仕送りしていれば使えるお金は1日に千円少々。

さらに、その中から水道代も電気代も払わなければならないから、生活はもっと苦しかった事でしょう。

 

その反面、緑さんの友人は焼肉を緑さんにごちそうし、カーテンの余り布まで出るなど、ある程度の余裕はあったようです。

なぜ緑さんだけが、仕送りをしていたとはいえ、このような追い詰められた暮らしをしていたのかと考えさせられます。

 

一時期、ワーキングプアという言葉が流行っていました。

しかし、そのような事はずっと昔からあったのです。

そう、戦国時代や平安時代にさかのぼるまで。

 

みうけんは実際にその時代を生きたわけではありません。

ただ、そのような描写がいろんな作品や文献から見て取ることができます。

労働力を使い捨てする時代というのは、今に始まった事ではないと思います。

 

数年前、ある公共的な施設で仕事をしていた時のこと。

その施設内にはたくさんのホームレスが、段ボールを持ち込んで勝手に寝泊りしていたが、それらを無慈悲に追い出すのも仕事の一つでした。今にいう「ホームレス排除」です。

 

その時、ホームレスたちは口々に言うのです。

 

「お前らはいいよな、これから帰って風呂入って寝るんだろう。おじさんの布団は、ほら、これ。段ボール1枚だよ」

 

「そうやって偉そうに弱いものいじめするのも今のうちだ。次はお前がここに寝る番かもしれないぞ」

 

その時は、な~にを、と思って彼らの生活用具を放り投げていました。

しかし、今になって冷静に考えてみれば、自分だっていつそうなってもおかしくはないのです。

 

いや、普通に就職できて、衣食住がある、家族もいて、家庭もある。

それほど幸せで運のいいことは、今の時代なかなかないのかもしれない。

そして、運の良いことがいつまでも続くとも限りません。

 

ある日、同僚と2人でホームレスを排除しているとき、そのホームレスの中に若い女の子がいました。

年のころは高校生くらいだったと思いますが、きっと家出した末のことだったのでしょう。

 

最初は性別すら分からなかった彼女でしたが、「ここで寝るな!」と叫びながら荷物を道路に放り投げる我々を、じっと恨めしそうに見つめていたあの眼差しはいつまでも忘れません。

いま、その女の子はどこで何をしているのか。

ふと、思い出すことがあります。

 

若者の貧困。それは確かに存在します。

むしろ、老人よりも若者の方が苦境に立たされているように思えます。

 

明日の我が身もどうなるか分からない、食べて行くのがやっと。

そんな状況で結婚し、子供を作るという「当たり前の事」じたいがただのリスクになってしまっています。

少子化対策を叫ぶ政治家のセンセイには、決して想像もできない現実でしょう。

 

話を緑さんの事に戻すします。

特に気になるのが、友人からもらったカーテンの余り布を「喜んで取り付けた」翌日に失踪したことです。

殺風景で飾り気のない部屋に華やかなカーテンが入ったその日、緑さんはそのカーテンを眺め、静かな部屋で、ひとりなにを思ったのでしょうか。

 

遺体が発見されたのは自殺から3ヶ月が経過してからといいます。

その頃は、まさに街じゅうがクリスマスと好景気に浮かれている頃でした。

その光景をビルの屋上から眺めた緑さんは、短かった生涯の最後の瞬間、いったい何を思ったのでしょうか。

 

自殺というのは、実に悲しく痛ましいものです。

仕事の関係で、何人もの自殺された方々の遺体を見る事があります。

だいたいは原型を留めないほどに・・・もはや人間の形をしていないものまで。

 

しかし、その彼ら・彼女らにも、何も知らない純粋無垢だった赤ん坊の時代があり、またこの世に生まれてくるからには、どのような形であれ親がいて家族がいたわけです。

 

そこから、いろんな個々の人生を抱えて生きてきたのでしょう。

その人生の集大成が自殺であり、3ヶ月も気づかれずに埋もれたままとは、あまりにも悲しいではないか、と慟哭します。

 

世の中に、本当に神さまや仏さまがいて慈悲を施してくださるのであれば。

何も知らず、何も悪い事をしていない人々まで、なぜ追い詰めて自らの命を捨てさせてしまうのか。

あまりにも冷酷ではないか。

 

20歳という、あまりにも若すぎる死。

クリスマスの音楽が街中に流れるころになると、会ったこともない小松原緑さんの事が思いだされてくるのです。