小田急江ノ島線の鵠沼海岸駅を降りると、西口側は細長い路地に商店が点在する昔ながらの風情を残しています。
ここから引地川に向かって歩くと、八部公園の手前の路地に小さな鳥居が見えてきますが、ここが地域で信仰されている「高根地蔵堂」というところです。
入り口には神道のシンボルである鳥居をまつり、その奥には仏教で信仰を集めたお地蔵さまを祀るところは、いかにも日本古来の神仏習合のならいを感じさせる光景であるかなと思います。
このお地蔵さまの建立については「藤沢の民話」(第一集)に記述があり、天保14年(1843年)2月、第13代将軍である徳川家定公が就任された頃とされ、この辺りの鵠沼堀川という集落の開祖であった山上新右衛門により建立されたものだそうです。
時は遡って鎌倉時代、合戦によって落ち延びてきた高貴な若君を守り、配下を4人も従えた武者が武運尽きてここにて命を落としたところ、これを哀れと思った村人たちによってねんごろに葬られ、塚が築かれたのだと言います。
その後、この塚の周りで畑を耕す村人は決まって高熱にうなされるようになるので、村人たちが合議した上で建立されたのが今の高根地蔵さまとされています。
このお地蔵さまを建立して一安心とはならなかったようで、それでも祟りは無くならなかったことから安政5年頃(1858年)から毎年9月4日に追善供養の縁日を設けたそうです。
すると、その頃からぱったりと崇りが途絶えたばかりか、恐ろしかったお地蔵さまはいつしか子供の病いを治すお地蔵さまと信仰されるようになり、今でもお地蔵さまの足元には子供の病が治ったお礼として奉納された小石が山のように積み上げられています。
時代は平和に流れて明治の初めとなった頃、地蔵堂を新しくするために塚を崩したところ刀身2振りに加え、石碑の破片と土器12枚が出土したそうですが、その後に散逸してしまったといいます。
いま、初夏の明るい日差しに照らされる小さな地蔵堂の中を見てみると、今なおたくさんの千羽鶴が飾られて地域の方々に愛されているさまが容易に見て取れます。
その一方で、お地蔵さまの足元には鎌倉時代などに死者の墓として多く建立された小さな五輪塔が残され、ここがかつてお墓だったかもしれないということを教えてくれています。
訪れる人もあまりいない小さな地蔵堂の前で手を合わせていると、凛とした若君を守りつつ、全身の鎧に矢を刺したままの豪壮な武将が茂みをかき分けてゆく、そのような後ろ姿が目に浮かんでくるかのようです。
決して歴史の教科書には載らないような名もなき武将かもしれませんが、確かにここに存在した歴史の秘話に触れることができるのも、このような「小さな地域史」探訪の醍醐味なのかもしれません。
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