相鉄線の瀬谷駅から北側、どこまでも続く海軍道路を北上して行った西側にあるのが、日蓮宗寺院である蓮昌山 妙光寺です。
このお寺の歴史は古く、飛鳥時代の白雉3年(652年)にさかのぼり、一人の尼僧が石となったものをお祀りしたのが始まりである事は、以前の記事で紹介した通りです。
さて、この妙光寺の本堂の前には鐘楼があり、立派な梵鐘が下げられていますが、鎌倉時代(正中2年)に作られたとされるこの梵鐘は、現在は神奈川県重要文化財になっています。
この梵鐘についても興味深い伝説が2つ残されているので、今回はまず一つ目を紹介したいと思います。
500年以上もむかし、北条氏家臣で瀬谷を治めていた山田伊賀守経光(まだいがのかみつねみつ=以後山田経光)という人がいました。
山田経光は百人力と評される剛力の持ち主として名が高いばかりか、囲碁が大層好きだったので、恩田村の万年禅寺(現在は廃寺)の通周和尚とはよく碁を打ち合って楽しんでいました。
万年禅寺は禅宗寺院、山田経光は熱心な日蓮宗信者で妙光寺に帰依していたので、時おり熱い法論を交わすのも自然のことだったでしょう。
ある日、いつものように碁もそっちのけで禅宗か、日蓮宗かの言い合いになったとき、「もう今日は碁はやめにして、この法論で決着をつけてみよう。その勝敗に何か賭けてみようと言う事になります。
そこで、山田経光は腰にさしていた刀と甲冑を賭け、通周和尚は寺の梵鐘と半鐘を賭ける事にしたのです。
どちらも武士にとって、また寺にとってはとても大切なものです。
1日、2日と続けられた長い問答はなかなか決着がつきませんでしたが、ついに山田経光の問いに通周和尚が答えに詰まってしまい、山田経光の勝利に終わりました。
剛力の誉れ高い山田経光は、瞬く間に梵鐘と半鐘を取りはずすと、何百キロもあるはずの梵鐘を笠のように被り、また半鐘には縄をつけてズルズルと引きずって瀬谷に帰っていったのです。
この鐘と半鐘は、山田経光が日頃から信心している妙光寺に寄進され、立派な鐘楼も出来上がって取り付けられる事になりました。
檀家が居並んで見守る中、さっそく妙光寺の和尚が鐘をついてみましたが、その鐘は万年禅寺にあった時のような素晴らしい音ではなく、まるで故郷を懐かしむ泣き声のような、物悲しい音しか出しませんでした。
「これは、無理やりに持ってこられた鐘が恩田の寺へ帰りたがっているのに違いない。何とかして供養をせねば」と考えた山田経光は、恩田の万年禅寺の通周和尚を呼んでねんごろに供養をしたのです。
しかし、それでも悲しげな鐘の音は変わる事はなく、それ以来この鐘を撞くと、「ゴオンダ、ゴオンダ」と聞こえるという事です。
それから時代は流れ、令和の世となりました。
山田経光が築いたお城は深見城と呼ばれ、今でも大和市に残されており、その周囲には馬場屋敷、山田橋、牢場坂といった地名も残されています。
また、万年禅寺の通周和尚はその後、妙光寺の第十二世であった日達上人の弟子となりました。
そのまま名を日栄と改めて妙光寺の十三世を注ぐこととなったということです。
このお話はいかにも民話らしいものでですが、この万年禅寺と妙光寺の梵鐘にまつわるお話はもう一つ残されているので、そちらは次回に紹介したいと思います。
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