現在、海老名市の有馬小学校があるあたりは、かつては中河内という字名で呼ばれていました。
このあたりは現在では静かな農村地帯が広がり、小高い小山たちの間を縫うようにして田畑が広がり、その中を真新しいランドセルを背負った1年生たちが列をなして下校していく穏やかな風景を見ることができますが、この有馬小学校と中河内地区では、かつて「辻飯」という民俗行事が盛んにおこなわれていたそうです。
今は昔のことですが、どれほど昔かは文献にもハッキリと記載されてはいません。
ただ、毎年7月14日は辻飯の日であるとして、有馬小学校の女子児童は全員、1年生から6年生に至るまでが1時限目で授業を終え、早々に早退したのだといいます。
有馬小学校の公式サイトによれば「開校は明治6年で海老名市で最古の学校である」とありますから、その時代以降のお話でしょう。
さて、この日この地区に住む乙女たち、それも未婚の乙女たちが集まって行う辻飯という行事は、かねてから宿として借りていた農家に全員で泊まりこんで行われました。
最年長の娘がリーダーとなって飯を炊き、各自の家庭から持ち込んだカボチャなどの材料で「煮しめ」を煮て、キュウリなどの料理を作ります。
出来上がった料理は、近くの家からもらってきた朴の葉を三等分くらいに切って皿とし、ごく少量ずつのご飯を盛りつけ、各自が持参してきたお酒一本とともにおぜんの上に載せていきます。
これが住むと乙女たちは手ぬぐいで鉢巻をし、その結び目はピンと跳ね上がらせ、かつ赤や黄色のタスキを粋にかけて、着物のすそをはしょります。
皆がピンクの腰巻をあらわに出すと草履をはき、用意したお膳を各自で捧げ持ち、地区の辻々を上の方から周ったのだそうです。
行列が道の辻に来るたびに朴の葉のご飯を供えては、お酒を数滴たらすようにして捧げ、そこに葬ってある飼い鳥や犬猫の霊を慰め、盆供養をするというのが辻飯の習わしだったそうです。
お膳を高く掲げ、しかも載せたものが落ちないように水平に保ったまま何か所も歩いて回るのですから、この行事はとても大変だったそうです。
やがて行列は火葬場があったという丘の上の小さな塚へといき、残った料理を全部投げ捨てるようにして捧げると、悪霊に取りつかれないようにと後を振り向かずに宿まで逃げ帰ったのだといいます。
その後は、地区から未婚の男子を呼び集めては先に作っておいた手料理を囲み、楽しいひとときを過ごしたのだそうです。
この行事は思い起こせば、色とりどりの和服をたくし上げた見目うるわしき乙女たちが膳をかかげて行列をなして歩く、まことに麗しいものだったのでしょう。
その雅なるさまは令和の時代にあっても容易に想像できます。
この辻飯の盆行事は、昭和の初め頃までは続いていたそうですが、いつの間にか廃れてしまい、今では地域の中でもすっかり忘却の中にあるそうです。
今となっては文献の中でしかうかがい知ることができない、乙女たちが中心となった盆行事ですが、中河内の坂道にたたずんではるかに残る農村風景を眺めているうち、髪を結いあげ鉢巻をまいた粋な艶姿の娘たちが、行列をなして膳を掲げ歩く姿が眼前に蘇るかのようで、ここにも時間の流れの無情というものを思い知るのです。