さて、このお話の【上】では若い娘を飲み込もうとした、おそろしい蛇の話を紹介しました。
【下】となるこのお話では、人の役に立った大蛇のお話を紹介していきます。
【上】でも紹介しました中井町と二宮町の境となる小さな沢、「立沢」が葛川に流れ込むところに、人がやっと通れるような、鉄鋼づくりの小さな簡素な橋がかかっています。
ここから80メートルほど上流のバス通りには大正時代に造られた「堺橋」という立派な橋が今でも現役ですが、その橋とは大違いです。
この橋はもともと一本の丸太橋で、地図にも載らないような橋でした。
今となってはさすがに丸太橋ではなく鉄製の橋に架け替えられていますが、この橋のことを地元の方々は今なお「蛇橋(じゃばし)」と呼んでいます。
どうもGoogleマップではうまく表示されませんので、住宅地図で確認してみました。
このような歴史と民話のツーリングでは、実に細かく記載された住宅地図は必須です。
住宅地図の中央、マーキングしているのが蛇橋であり、その東側(右側)にのびる小川が立沢です。
江戸時代のいつだかは分かりませんが、小田原藩の侍がこの辺り、当時は「五分一村」と呼ばれたところに検地のためにやってきました。
村へ入るべく立沢を渡ろうとしたところ、運悪く大雨の後で橋はすっかりと流されて対岸に渡ることもできず、大変困っていました。
さてどうしたものか思案していると、ちょうどよい太さの丸太が流れてきて、沢の両岸に引っ掛かり、まさに橋そのものになったのです。
踏んでもびくともせず、これなら渡れそうです。
侍の一行は「これはありがたい」とばかりに渡り始め、最後の供が渡り終えると、その丸太は突然動き出して首をもたげたのです。
その首には大きな眼がギラギラと光り、さらに赤くて大きな舌をシュルシュルと出し入れしていたのでした。
丸太だと思って喜んで渡ったものが実は大蛇の体であった事を知って、侍とその一行はびっくり仰天して座り込んでしまいました。いっぽう大蛇は、そんな侍たちの驚きなど意に介さないそぶりでズルズルと歩き始め、どこかへ立ち去ってしまったという事です。
この話はしばらく語り継がれ、本物の丸太橋がかかった時も「蛇橋」と呼ばれるようになったという事です。それからというものこの辺りでは、昭和の中頃までは「日暮れになると大蛇が出る」と恐れられ、畑仕事なども夕暮れにはすべて済ませておくのが習わしであったという事です。
【上】でも書いたように、この時は大きなアオダイショウがゆうゆうと歩いていました。さすがに丸太まではいきませんが、アオダイショウは日本にすむ蛇の中でも大きくなる部類にはいると思います。
このような大きな蛇が身近にいる暮らし、というのが昔は当たりまえで、ある時は神様として、またある時は人を食らう悪魔のような存在として、その時その時で立場をかえてきたものです。
いま、夕暮れも近くなった立沢のほとりに一人立ち、のんびりと歩くアオダイショウの後ろ姿を眺めていると、この地の人々が抱いてきた自然に対する畏敬がいまなお蘇るかのようで、巳年でもあるみうけんは余計にアオダイショウに親近感を覚え、思わず手を合わせたのです。