JR横浜線の相模原駅とJR相模線の南橋本駅の中間のあたり、その名も「氷川通り」の走る「氷川神社前」の交差点のところにあるのが相模原市清新の氷川神社です。
ここの御祭神は「素盞嗚尊(すさのおのみこと)」であり、日本神話の天岩戸のお話では乱暴狼藉を働いたものの、その後で悔い改めたことから一切の罪や穢れを清めて取り除く神様として信仰され、さらにヤマタノオロチを退治し奇稲田姫(くしなだひめ)との御成婚によって治水の神、稲の豊穣の神、農業の守り神としても信仰されているのです。
この近辺は江戸期の天保14年(1843年)に、当時の代官であった江川太郎左衛門の許可と、小山村の原清兵衛光保の陣頭指揮によって開墾された新田です。
原清兵衛光保の名をとって清兵衛新田と呼ばれたものを略したのが、現在の清新という町名になっています。
この時に、現在の八王子市になる武蔵国南多摩郡上櫟田村の村社であった氷川神社より御分霊をいただいて、開墾地の鎮守として崇められたのがこの氷川神社の始まりだそうです。
最初は「いづなさま」とも呼ばれ、2坪程の小さな祠だったのが年月を経て人々の崇敬を経て、現在の形にまで発展したそうです。
ちなみに、この氷川神社は最近はやりの御朱印にもたいそう力を注がれているようで、この時もカラフルで綺麗な御朱印が色々と取り揃えられていました。
独身貴族だった昔であれば、「ぜんぶ!!」とお願いしたところでしょうが、2児の父となった今では家庭の事情もあり「通常の御朱印」を1つだけ頂きました。
さて、この氷川神社については白蛇にまつわる不思議な言い伝えがあります。
むかし、ここから離れた相原の地に「外の御前」という社がありました。
これは相原の華蔵院境内に祀られた「内の御前」に対し、境外に祀られた社であり、ご祭神は子安明神であったと伝えられています。
文明開化まもない明治9年のこと、その外の御前の社の建材が毎晩一つ、また一つと無くなっていくという事があったそうです。
ある日は羽目板が一枚、ある日は縁側板が一枚、またある日は屋根板が一枚、と必ずどこかの建材が持ち去られるのです。
はて、珍しいものを盗んでいく泥棒もいるものだと村人たちは不思議に思いますが、とにかく夜に寝ずの番を立てることになりました。
村人が夜通し起きて、そっと社殿を見守っていた夜中、突如として大きな白蛇が現れて、屋根板を支える垂木を一本くわえて行くではありませんか。
村人はこっそりと後をつけると、白蛇は村を出て、さんやを過ぎ、おいせの森を抜けて、清兵衛新田までたどり着いたのです。
そこは、新田鎮守の氷川神社の地で、ここに垂木を持ち込んだ白蛇は、その後どこかへ消えていきました。
翌朝、村人たちが氷川神社の境内を探すと、草むらの中に今まで運ばれた外の御前の建材が隠してありました。
これは、きっと「外の御前の建物を氷川神社にお移ししたい」という、神様の思召しだろうということになり、外の御前の建物は清兵衛新田に譲り渡されたのだという事です。
今も残る氷川神社の本殿は、外の御前のものである、と「相模原市史 民俗編」には記載されています。
しかし、のちに外の御前は相原八幡宮に合祀されてしまっています。
社殿は氷川神社に、神様は相原八幡宮に、という珍妙な結果になったのです。
昔から、白蛇は神様の使いとされてきました。
日本の神様には、白蛇と関連したものが多く出てきますが、これもそのうちの一つとみてよいでしょう。
いま、多くの木々に守られて清々しい氷川神社の境内で、秀麗な拝殿と本殿に向かって手を合わせていると、大きな材木をくわえて歩く白蛇と、その後をつけて歩く村人たちの姿がまるで目に浮かんでくるようで、ここにも民話というものの楽しさを見出すことができるのです。