四季を通じて風光明媚な三浦半島は、農業と漁業の町でありながら観光にも力を入れており、特に遠洋マグロ漁業で名を馳せる三浦三崎の町には観光客目当ての店が軒を連ね、「三崎まぐろきっぷ」の販売も功を奏してか、週末ともなればたいへんな賑わいである。
その反面、ここ三浦半島の南東の端、剱崎というところは往復するバスの本数も一気に減り、他にめぼしい観光名所にも乏しいとあって、ここまで来る人はなかなか少ない。
この日も原付を走らせてここまで来たが、平日という事もあろうが誰一人としてすれ違う事はなかった。
剱崎はもともと、その読みを「つるぎざき」と読ませたが、これがいつ頃から「けんざき」と読まれるようにもなったのかは定かではない。
今では「つるぎざき」と読むほうが正式である、と三浦市によって公式に見解されているが、今なお「けんざき」の名も親しまれ、その名は随所に多く残されている。
この剱崎という地名の由来については面白い民話が残されている。
かつて、日本がまだ江戸時代だったころに、徳川幕府に献じる材木を積んだ船が江戸へ向かう途上、この沖合で難破したことがあった。
これは不吉だとした海南神社の神主は、海中へ剣を投じて龍神の怒りを鎮めようとしたのだという。
すると不思議なことに、それまで吹き荒んでいた暴風は嘘のように静まり、海底に没したはずの材木は船もろとも浮かび上がり、十八艘の船を用いて磯に運ばれたのが由来となり、この地を剱崎と呼ぶようになったのだという。
いまでは全くもって平和で静かな海岸であるが、白く映える灯台の脇には高くそびえる剱崎無線方位信号所のアンテナが立ち、その根元に二本の角を出したように見えるのは旧日本軍の探照灯格納庫の跡だと言われている。
この剱崎でも、一見して平和で穏やかな海岸であるが、ある時は暴風の鎮めを神仏に祈り、ある時は迫りくる敵軍を待ち受けて若者が命をかけていたのである事を思うと、改めて三浦半島というところの歩んできた歴史の奥深さに感じ入るのである。