戸塚の倉田小学校の北方に、最近比較的新しい新道が開通した。
現在は、この新しい新道を多くの車が通り過ぎていくし、方々はガードレールで囲われており、これからもますます道は広がり、やがて住民の生活や物流にはなくてはならない大動脈へと変わっていくのであろう。
しかし、ここにはかつて「実方塚」という塚があったと言われている。
現在も現地にはその名を忍ばせるバス停が残っているが、肝心の塚はすっかり姿を消してしまいその跡形もない。
だが、道路わきから入る小径にはかつてこのあたりが里山であったころの名残をかろうじて残し、この中に入っていけば、まるで百年二百年の歳月を逆戻りしてしまったかのような錯覚に陥るのである。
この竹林の中の小径をずっと歩いていき、やがて道が下り坂へとさしかかった時には、新しく開通した新道から聞こえ来る自動車の走行音すらほとんど聞こえなくなり、あたり一帯は耳を突き上げるほどの静寂に包まれるのである。
しばらくこの竹藪の小道を進んでいくと、いくつかの古ぼけた石碑が墓地の片隅に残っているのを見つけることができる。
実方塚という塚がなくなっても、その顕彰碑はここにこうして引っ越してきては大切に守られており、かつてここの近くには実方塚があったことを伝えている。
実方塚の実方とは、百人一首に出てくる藤原実方(ふじわらのさねかた)のことであり、平安時代中期の貴族であり「中古三十六歌仙」の一人に数えられるという著名な歌人でもあった。
貴族として順調に昇進していたが、一条天皇の御前において藤原行成と和歌について口論になり、怒った実方が行成の冠を奪って投げ捨てるという事件を起こしてしまったために一条天皇の怒りを買って陸奥国へと左遷を命じられたといわれているが、左遷の理由にあっては諸説入り乱れて定説というものはない。
しかし、京都から陸奥へと左遷された事は事実のようで、当時、日本の中心であった京都の貴族が陸奥国、現在の青森県に左遷させられるというのは大変なことであった。
(現在でも京都から青森に人事異動させられればたいていの人は人生が変わるであろうが)
この実方が気に入っていた女性が、同じく百人一首で有名な絶世の美女、清少納言であった。
実方は清少納言に対し、
かくとだに えやはいぶきの さしも草
さしも知らじな 燃ゆる思ひを
(私がこれほどまでに貴女をお慕いしているという事を、せめて一言でも伝えたい。その思いは、まるで伊吹山のさしも草のようです。しかし、あなたはこの燃えるような想いをご存知ではないのでしょう)と詠み、それに対して清少納言は
夜をこめて 鳥のそらねは はかるとも
よにあふ坂の 関はゆるさじ
(かつて、函谷関は夜も明けてないのに鶏の声で夜明けだとだまされましたね。しかし、ここ逢坂の関は、そのようなことではだまされたりしませんよ)と詠んだのである。
炎と燃える恋心を訴えて、なんとか清少納言を仕留めようとする実方と、そのような言葉には騙されない、と一蹴する清少納言の恋物語である。
しかし、結局は実方は左遷となり、失意のうちに奥州へ向かう道すがら、落馬がもとで病の人となり、この上倉田で命を落とした、と言い伝えられているのである。
現在、実方の墓所は宮城県名取市北野にあるし、ここで実方が亡くなったのか、それとも従者が亡くなったのか、実方が残した遺品を埋めた塚か諸説あったようだが、このあたりでは実方の塚として語り継がれてきたのである。
この辺りの言い伝えでは、この上倉田で実方が亡くなった後、主を失った一族は菩提を弔うために生涯この地を離れる事はなく代々にわたって塚守を務め続けた。
その一族は謹慎中であった事から、藤原の姓ではなく主の名を偲んで姓を「実方」へと変え、現在でも実方一族は戸塚の地に多く息づいている。
現在、実方塚については道路建設のために跡形もなく破壊されて見る影もないが、この実方塚があったとされる所を遠くから見渡せば、かつて平安の昔に失意のままこの地で亡くなったとされる藤原実方と、歴史に残る絶世の美女との恋物語が蘇るようである。