相模線上溝駅から南西に進み、ヨークマートのある上田名をすぎると、相模川沿いに田名八幡宮という神社がある。
田名八幡宮は、延暦17年(798年)の創建と言われ、天地社(天地大明神)が元々の氏神だったのではないのかとも言われている。
江戸時代には田名村の鎮守として祀られ、慶安2年(1649年)には社領6石を越えるの御朱印状を賜り、明治時代には村社に列格していたとされる歴史のある神社である。
田名八幡宮の社殿の背後、天地大明神の祠の向かって左に奇妙な形の細長い石が3体建っているのが見て取れる。
一番左、一度折れて針金で補修されたものが「ばんばあ石」、真ん中のゴツゴツした武骨な石が「じんじい石」、右端の「代理石」と書き込まれたものが通称「めかけ石」と呼ばれている。
昭和の中頃までは、「めかけ石」は真ん中に据えられていたが右端に移されて、今は名前も「代理石」と改めたようであるが、それにはこのような民話が残されている。
昔、この地に大変信仰心が篤い男が住んでいて、日夜神様に対する信心を怠ることはなかった。
ある夜、神様が夢枕に立って仰せられるには
「わたしは、いま『一の釜』の西を流れる相模川の一番深いところにいるが、お前の信心の篤さを見込んで頼みがある。わたしは体は石であるが、わたしの夫としている石はこの川の河口からはるか離れた江の島の方にいる。それでわたしは夫を慕って上流からはるばるここまで来てみたが、流れが緩くなってこれより先に行くことができない。それでわたしを八幡宮の境内まで連れて行ってもらいたい」
その男は夢のお告げにいたく感激し、さっそく相模川の一の釜と呼ばれる淀みのところに行き、水中深くもぐって探してみたところ、果たして老婆らしい格好の細長い石が見つかった。
そこでさっそく川から取り出して、現在の位置に安置したのである。
その後、ある年に長い長い日照りが続き、田のものも畑のものもすべて枯れかかっていた。村人たちは一心に神仏に願をかけて雨乞いを行ったが、すこしも雨が降る気配はなく、やがて作物は枯れ、飲む水にも事欠くありさまになっていった。
そんなある日、ふたたび「ばんばあ石」が男の夢枕に現れて、「いままでのおまえの志に報いるため、よい事を教えてやろう。わたしを一の釜に入れなさい。そうすれば雨を降らせることができるだろう」と告げたのである。
飛び起きた男は急いで村長にこの事を報告し、村をあげて天地大明神に祈願をかけ、この石を担ぎ出して一の釜に沈めたところ、不思議なことに空はにわかにかき曇り、雷鳴とどろき大雨を降らせて、人も作物も息を吹き返したのであった。
その後、「ばんばあ石」はそのまま川底にあったが、何年か後に川下のものが何も知らずに河原から細長い石を拾ってきて井戸端の踏石としたところ、家内全員が病床に伏す始末となってしまった。
そこで、たまたま通りかかった行者にこの事を告げると行者はしばらく祈祷をしていたが、「この井戸端の細長い石はただの石ではない。そんなものを踏みつけるから祟りがあったのだ。いますぐ、この石を八幡様の境内に戻しなさい」と言ったのである。
その家のものはさっそく石を八幡様に返すと、病人はたちまち元気になったという。
それからは、この石は霊験あらたかとして日照りの時でもなるべく動かさないようにし、よほど日照りが続いたときにのみ番人をつけて一の釜に入れ、雨が降った後はさっそく引き上げて八幡宮の境内に戻したという事である。
その後、いつの頃か江の島から「じんじい石」が迎えられ、「ばんばあ石」と並べられるようになったが、この辺りの詳しい言い伝えは残っていないそうである。
ただ、面白いことに、雨乞いのために「ばんばあ石」が川に投じられている間は「じんじい石」が淋しかろうという事で、親切な村人が代わりの石を「じんじい石」の脇に置いたのであった。それが今の「めかけ石」(代理石)である。
一説には「じんじい石」が来てからは、「ばんばあ石」が降らせる雨は嵐を呼んで大洪水となり、大きな被害を受けるようになったという。
これは、残された「じんじい石」の寂しさが涙と怒りになって現れたのではと噂され、「めかけ石(代理石)」を置くことで、慰められて怒りがおさまり、洪水にならないのでは考えられた、とも言い伝えられているのである。
時は立ち、治水も良くなって雨乞いの必要がなくなった現代において、もはや「ばんばあ石」は川に沈められることはなくなったが、だからといってせっかくお迎えした「めかけ石」を捨てるわけにもいかず、今でも3体仲良く並んでいるのだという。
大正時代末期まで、雨乞いの時は村会議員や村の名士が一堂に会し、村長はじめ皆が礼服着用の上で「ばんばあ石」を川に沈めたそうである。
中には、この雨は後に残された「じんじい石」と「めかけ石」の仲に嫉妬した「ばんばあ石」が流す涙であるとも、後で何を言われるかと心配した「めかけ石」が流す涙であったとも言われているが、このように民話は今でもこの地に息づき、時折家庭の食卓で話題に上ることもあるといい、今なお一定の信仰を得ているようであり、このように時代背景や語る人により変化していく民話の柔軟性が、より一層の奥深さを醸し出しているのである。