地下鉄の舞岡駅は横浜や上大岡、湘南台などに比べて乗り降りする人も少ない静かな駅であるが、その舞岡駅の駅前の通りを港南台方面に向かうと、ほどなくして「桜堂」という交差点に差し掛かる。
その桜堂の交差点よりさらに進んでいくと、道の左手に木々に抱かれるがの如くの、長福寺という古刹があるが、その山門やら参道の趣き深さたるや、いかにも古式の禅宗の寺であるにふさわしい雰囲気を醸しているのである。
この長福寺は、応永7年(1400年)に開山したとされており、臨済宗円覚寺派に属して山号を桜岡山と称し、本尊は阿弥陀如来である。
この長福寺は、お彼岸の時期ということもあろうが本堂の門が開かれて自由に参拝できるようになっていた。
まるで参拝者を拒絶するかのように扉をしめて鍵までかける寺院が多いなか、本来信仰の対象であり、あまねく衆生の声を聞くべき寺院の門が広く開かれているのは嬉しい事である。
ところで、この長福寺の山門の脇に立派な木造の観音堂が残されているが、これこそが本来の桜堂であり、長福寺の塔頭のひとつであったものだが、次第に長福寺そのものまでが桜堂と呼ばれ親しまれるようになり、交差点の名にまでなってしまったのは皮肉な事であろう。
ここに祀られし十一面観世音菩薩像は行基の作と伝わるが、その真偽はわからない。
源頼朝の正室であり、尼将軍との名も高い北条政子の守護仏だったとされ、現在の「鎌倉三十三観音霊場」の前進である「鎌倉郡三十三観音霊場」の第19番札所であったという。
「鎌倉郡三十三観音霊場」は江戸時代に開創され、江戸から近い観光地、景勝地として大いに賑わったものの明治時代の廃仏毀釈が吹き荒れて札所が廃寺となったり神社に統合されたりして明治時代には廃れてしまった。
しかし、後の大正~昭和時代初期にかけて鎌倉市中心部の寺院を中心に鎌倉三十三ヶ所観音霊場として再編され、いまなお参拝者が途絶える事はなく、その手軽さも相まって大いに賑わっているという事である。
現在の長福寺は、訪れる人もまばらな静かな寺であり、本堂裏手の大きな地蔵菩薩は、今なおこの地に生き、長福寺で祈りを捧げる人を穏やかに見守っているのである。
かつては北条政子の信仰を受け、江戸泰平の世には観音霊場の札所として民衆の信仰を集めた長福寺の桜堂は、桜の木で作られたといわれる堂宇の柱も艶やかに、妙智なる観音力をもって今なお衆生の救済と安寧の日々を密かに守り続けているのである。