交通量も激しい国道1号線を南下して藤沢方面に行くと、不動坂の交差点の手前には旧東海道の入り口がある。
このあたりは東海道の拠点として、また大山不動尊への参拝客が歩いた不動坂への分岐点として、古くから栄えてきたところでもある。
この左手には大きく開けた土地があり現在はマンション建設予定地であるが、その脇には痛ましく傷つけられて包帯のような布を巻かれて、まるでミイラ男のようになった老木が一枚の葉を付けることもなく立っているのが見て取れ、奥にうっそうと茂る木々とはあまりにも対照的である。
(左手の木)
これは神奈川県が指定した天然記念物の樹齢300年をこえるモチノキの大木で、通称は「相模モチ」とも呼ばれている。
ここにはもともと益田家という旧家があり、このモチノキの裏手の高台は「台」という屋号で呼ばれた茅葺屋根が立派な母屋があったりしたが、現在はすっかり解体されてマンションになるという事である。
現在は更地となり昔の面影はみじんも感じられないが、こちらのサイトでかつての勇姿を見ることが出来る。
このモチノキはもともと高さ18mと19mの威容を誇る2本の雌株で、前述の天然記念物のほか「かながわの名木100選」にも選ばれていた。
話は変わり、現在の鎌倉ハムは明治7年(1874年)にイギリス人の技師ウィリアム・カーティスが神奈川県鎌倉郡で畜産業を始め、商品を横浜に住む外国人向けに卸していた。
このカーティスが東海道を遊覧している際に戸塚宿・吉田元町の茶店の看板娘であった加藤かねという19歳の娘がおり、カーティスはこの娘に恋心を抱くがやがて両想いとなると周囲の反対を押し切って共に住むようになる。
やがて、カーティスとかねは現在のかっぱ寿司のあたりで「白馬亭」という外国人むけのホテルを創業し、また近くで畜産を初めてハムやバターを製造し始めたのが鎌倉ハムのはじまりとされる。
時は流れて明治の地震のおり、カーティスの工場も大火に見舞われるが周辺住民の協力一致のもと消火活動が行われ、これにいたく恩義を感じたカーティスは益田直蔵らに秘伝の製法を伝授したのが鎌倉ハムの発祥とされ、今でも当時の赤レンガ倉庫などが残されている。
これにより益田家は隆盛をきわめたが、時は流れて土地の所有者が変わると、平成29年(2017年)に益田家の家屋はたちまち解体されてマンション用地として平坦に整備されたが、その際に開発工事の邪魔であるとして工事業者により伐採されてしまい現在の姿となってしまったのである。
この時、伐採を目撃した住民が抗議するも工事業者に相手にされなかったため県に通報され、神奈川県が県文化財保護条例の違反行為(無許可の現状変更)であるとして正式に業者に罰金刑が言い渡される騒ぎとなった。
もともと老木で弱っていたところに大きく刃が入れられてしまい、さらに倒木の恐れありとして神奈川県により伐採され、さらにもともとの位置から無理な移植を繰り返したので、現在は新しい葉も出ることなく枯れてしまったかのように見えるのである。
樹木の生死の鑑定は専門ではないので断言はできないのだが、樹齢300年をこえて、地域の人々のみならず東海道を往還する旅人から愛されてきたであろうモチノキがこのようにして枯れてしまったのだとすれば、これほど悲しいこともないであろう。
現行の法制では、代が変われば遺産分割相続の問題が発生し、さらに相続しても多額の相続税に追われ、結局は旧家を手放して分譲してしまう事例が多くみられる。
この益田家にもいろいろな事情があったのであろうし、その事情をかんがみれば手放されてしまうのも仕方がなく、これは現行の法制の欠点だと個人的には思うのであるが、こうしてまたひとつ、古き時代の名残と息吹が無残に消えていくのかと思うとき、言葉では言いあらわせぬ一抹のむなしさがこみあげてくるのである。