小田急線と相鉄線・相模線が交わる海老名駅は、20年ほど前まではある程度の発展を見せながらもどこかにのどかさを残し、駅前には多くの田んぼも見られたが、ここ20年ほどの間に著しい発展を見せ、その賑わいはもはや本厚木駅のそれを抜かそうとしているかのようである。
そんな海老名駅前の喧騒から離れ、原付を10分あまり走らせると、辺りは農村風景が広がる大谷地区に辿り着くことができ、その道も交通量はめっきり減って静かなものである。
その片隅にひっそりと佇む大谷八幡宮は、鶴渓山八幡宮 (つるけいざんはちまんぐう) とも呼ばれる村の鎮守様で、祭神は誉田別命 ( ほむだわけのみこと )である。
その創立は元禄年間と思われ、鳥居脇の鐘と鐘楼は元禄7年に作られたと言われる、大変に古いものであった。
神道の神社に仏教の鐘楼というのは、かつて神社と寺院の区別があいまいだったころの名残であり、神奈川県内だけでも数多くの鐘楼が神社に残されている。
この大矢八幡宮の鐘楼と梵鐘は、この地で250年という永きにわたって地元の氏子の人々に親しまれていたが、昭和19年の国家総動員令により戦争資材として供出され、衆生を救うための梵鐘が戦争の砲弾や兵器に化けてしまったのは実に悲しいことであり、当時の情勢がどうあろうと神仏に対するこれ以上の愚弄もなかなかない事であろう、と個人的には感じている。
いっぽう、本殿は宝暦7年(1757年)に建立されたものであるとされたが、明治の初めに京都の男山八幡宮(石清水八幡宮)を勧進し、下大谷の鎮守として再建されたのだという。
いま、訪れる人もまばらな境内ではあるが、境内は良く手入れがなされており静寂として美しく、脇に並ぶ石祠が静寂の中にたたずんで、より一層の情景を醸し出しているのである。
この神社の梵鐘は、先述の通り大東亜戦争中に失われた。
それ以降、何も吊るされない鐘楼だけが残されていたが、これに心を痛めた地元の有志が団結し、昭和51年(1976年)10月、以前とまったく同じものを作り直しては当時かやぶき屋根であった鐘楼に奉納されたのである。
いま、この鐘は誰でも自由につくことが出来るが、合掌礼拝の上で心を落ち着け、すべての人々に幸多かれ、すべての無縁諸仏に仏恩あれと心を込めて鐘をつくとき、清らかな鐘の音はこの里を越えて全世界に響いてはあまねく神仏の加護をもたらしているかのようである。
いま、訪れる人もまばらな静かなる大谷八幡宮のふもとにたち、走り去る車の音に混ざりながら厳かに余韻を残す鐘の音を聞くとき、ここに救いを求めた多くの人々の息遣いと願いが今に甦るようで、ここにも時の流れのはかなさをそくそくと思い出すのである。