♫箱根の山は 天下の嶮
♫函谷關も ものならず
鼻歌を歌いながら、幾重にも重なるヘアピンカーブの県道732号線 通称「湯本元箱根道路」とも呼ばれる旧東海道の急坂を、原付のスロットルいっぱいに開けながら快調に登っていく。
やがて、急な上り坂から一転下り坂となるや、芦ノ湖に向かう道の右手に茶色く濁った池が見え、その静かな水面は日光に照らされてキラキラと輝き、その中に水鳥がゆったりと浮かぶ平和な光景を望むことができるのである。
これは一見すると名も無き溜池のような装いで、この池に立ち止まる人は皆無といった、昼なお淋しい池であったが池の端は綺麗に整備され、公園のようになっては自然石に「お玉ヶ池」と陰刻した石碑が建立されている。
このお玉ヶ池には聞くも悲しい女芸人の伝説が残されている。
時は元禄、江戸時代前期のころである。
言うまでもなく箱根は関所として、江戸時代には東海道を通るものは必ず手形という通行許可証を持参し、検分を受ける決まりとなっていた。
逆に手形さえあれば誰でも通ることができるわけであるし、これが男ならば住んでいるところの町役人なり菩提寺に頼めばその場ですぐ発行してくれるものであるが、これが女となると事情は違ったようである。
女には男とは違い、女手形というものがあり菩提寺などではなく幕府のお留守居役まで出向いていろいろと事情を細かく聞かれたうえでの発行となる。
江戸には参勤交代で全国から武士が集まり、当然その妻子もついてくる場合があるのだが、これが密かに江戸を抜け出してスパイのような真似事をされては困る、として女の通行には大変敷居を高くしたのだという。
特に関所を通る女たちにとって耐えがたいのは「人見女」という役柄の老婆に身を改められることで、体のどこかに密書など潜ませてはおらぬかと持ち物はもちろん、体の隅々、時には陰部や肛門の中まで改められたというのである。
いくら相手が同じ女とはいえ、改められる者が高貴であれば高貴であるほどこれ以上の屈辱はなく、この取り調べを苦にして関所の通過を諦める者はおろか、関所を通過してから身を投げてしまう女も多々あったといわれており、こうなると箱根の関所を越える者には、関所というものはまるで地獄やら魑魅魍魎が住まうところのように恐れられたという。
このころ、伊豆から出稼ぎに来ていた2人の旅芸人の女がいた。
名をお玉・お杉といい、お玉はまだ10代、お杉は30を越え二人の子を持つ女であり、旅の一座の仲間に入っては江戸で芸をして小銭を稼いでつつましく暮らしていたという。
あるとき、小銭もたまったし伊豆へ帰ろうということになり、それまで一緒だった一座に別れを告げると、東海道を西に向かって旅立ったのである。
当然、箱根の山を越えなければならないのだが、何よりも憂鬱だったのは険しい山道でも暗い闇夜でもなく、関所を通らなければならない事だった。
二人は関所に差し掛かる前に夕暮れになってきたので小田原の安普請なる旅籠にわらじを脱いだが、お杉はたまたま一緒になった女巡礼と他愛もない話に花を咲かているいっぽうで、お玉にとっては翌日に迫った関所越えが憂鬱でしかなく、人見のばあ様に何をされるのか、もはや腕でも取られて食われてしまうのではないか、という恐怖にまで襲われ、とても眠れたものではなかった。
さて翌日、早くに小田原の旅籠を出たがその先は険しい山道、平地を歩くようにはゆかずただ時間ばかりが過ぎていくつらい道のりであった。
相変わらずお杉は巡礼と何やら話しながら先を歩いているが、お玉の心は晴れず上を向くことも出来ない。おそろしい関所のことで頭の中がいっぱいになる中で、いつしかお玉はひとりはぐれてしまい、気が付いた時には周りは薄暗く、そして明らかに街道から外れた獣道である。
いくら前後左右を見回しても、見えるのは鬱蒼としてどこまで続くか分からない杉木立だけ。いくら声を振り絞ってお杉や巡礼を読んでも自分の声がこだまして帰ってくるだけであった。
もしかすると、ここは関所やぶりの裏道らしい。
この道を戻れば関所へ向かえるが、お玉の女手形はお杉が持っている。女一人で、手形もなく行ったところで通れるはずもない。
ますますあたりは暗くなり、聞こえてくるのはカラスの鳴き声ばかりかと思いきや、はて、どこからか男が呼ぶ声がするではないか。
その声はいかにも野太く、しかし威厳のある声である。
耳を澄まし、聞けば聞くほど近づいてくる。
よくよく見ると、はるか後方の山道を小走りに追いかけてくる男の姿。
「おーい、待て。関所――」
その声ははっきりと聞こえなかったが、確かに「関所」という言葉だけが聞こえた。
ここは関所破りの裏道である。ここで捕まれば命はなく、関所破りとして晒し首になるのは目に見えており、そうではなくても関所破りに失敗して磔となり体中を槍で突かれた者をお玉は見たことがあったから、ことさらに恐ろしくなってきた。
お玉は思わず駆け出し、獣道の奥へと走っていくが、相変わらず男は追いかけてくる。もはやお玉の髪は乱れ、服も乱れ、荷物も投げ捨てて無我夢中に走るが足には草がからみ、根につまずき、足元の石は転がってうまく走ることも出来ない。
そこで、ほうほうのていでたどり着いたのは関所の周りに張り巡らされた柵であったが、この柵を越えれば役人も追ってこないであろう。そう思って柵に手をかけたとき、運悪く通りかかったのは警邏の役人であった。
「そこの女、何をしておる」
この瞬間、お玉は全てを悟り全身の力が抜けると瞬く間に座り込んでしまい、御用となるや必死の命乞いもむなしく、あっけなく斬首されてしまったのである。
夕暮れの中、さらされたお玉の首の前には泣き崩れるお杉と、獣道でお玉を追いかけた男がただただ言葉を失い立ち尽くしていた。
この男は、先に泊まった旅籠の主人であった。
お杉はお玉がはぐれたことに気が付き、必死で探しまわったがどうにもならずに途方に暮れていると、お杉が旅籠に忘れた女手形を届けに来た主人にばったり会ったのである。
主人は地元のものなので獣道まで知り尽くしており、もしや獣道に迷い込んだやもしれぬとほうぼう手を尽くして探してくれていたのであったところ、主人の思惑どおりお玉は見つかるが、役人の追手と勘違いされてお玉は逃げてしまったのである。
関所破りというものは、関所の門をたたいて表より堂々と破るものなどいない。関所の周りに張り巡らされた柵を乗り越えるのが、いわゆる関所破りである。それにもかかわらずお玉は必死さのあまり役人の目の前で柵に手をかけてしまったのであるから、もはや言い逃れはできなかった。
もし、自分がお玉を見失ってなかったら、女手形を忘れていなかったらと自責の念に駆られたお杉は、晒し台からお玉の生首をおろし、せめて最後の償いに血を洗い流し、髪を結い直してやろうと考え近くの池に来た。
お杉が涙を流し、念仏を唱えながらお玉の血を洗い流してやると、お玉の生首は突然、安心したように表情を緩めては
「ほうやれほ――」と一声だけ芸の掛け声を唄って、目を閉じたのだという。
それまで、この池は「那津奈可池」(なずながいけ)と呼ばれていた。
しかし、時は流れてこの悲しいお玉の伝説が広まると、いつの日か「お玉ヶ池」と呼ばれるようになったのだという。
いま、このお玉ヶ池を見下ろす崖の上にたち、何事もなかったかのように静かな水面をたたえる池と、ただ風に任せてサワサワとした音を囁く杉木立を眺めるとき、谷の合間合間に建つ近代的な家が時代の流れを感じさせるが、この木々の下で涙を流しながら逃げまどい、その挙句に刑場の露と消えたあわれなお玉のことを思い出し、この世の無常というものをひしひしと感じるのである。