みうけんのヨコハマ原付紀行

愛車はヤマハのシグナスX。原付またいで、見たり聞いたり食べ歩いたり。風にまかせてただひたすらに、ふるさと横浜とその近辺を巡ります。※現在アップしている「歴史と民話とツーリング」の記事は緊急事態宣言発令前に取材したものです。

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民百姓のために散った義民 鈴木三太夫の伝説(海老名市)

発展著しい海老名駅から南側に離れると、なつかしい光景を今なお留める大谷の里に出る。この地域を南北に走るのが大谷座間線と呼ばれている生活道路である。


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この道路沿いには人知れずしてひっそりと立つ社があり、その隅々にまで掃除は行き届いて清潔に守られているのが見て取れるが、これこそが江戸時代に自らの身命を賭して農民を守らんと闘った義民、鈴木三太夫の霊堂なのである。


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鈴木三太夫は、生年については明らかではないものの、江戸幕府五代将軍徳川綱吉の頃、貞享元年(1684年)4月27日にその壮絶な生涯を閉じている。

 

もともと鈴木三太夫は、この相模国海老名郷大谷村の名主であった。本名は鈴木三左衛門であり、死後にその偉勲を称えて三太夫と号せられたとされている。

 

延宝2年(1674年)、もともと幕府領であった大谷村は旗本の町野幸宣に下賜されたことにより、町野幸宣が領主となった。

町野幸宣の政は厳しく、増え続ける年貢により民百姓の暮らしは困窮したものの、10年近くたった天和3年(1683年)には子の町野幸重が家督を継ぐが、年貢徴収はさらに厳しいものとなり、凶作となってもその苛烈さはとどまらず多くの餓死者まで出る有様であったという。

 

これを見かねた鈴木三左衛門は、江戸幕府に直訴を企てた。しかし、何者かによって事前に密告されてしまったためにあえなく捕えられ、貞享元年(1684年)4月、現在の中央農業高等学校の校内に位置していた今里代官所で斬首の刑に処せられたのである。

 

鈴木三左衛門には子が2人いたが、いずれも同罪として同じく処刑され、事前に離縁していた妻も自害してしまったとされ、鈴木三左衛門父子の亡骸は近くの妙常寺の住職に引き取られてねんごろに葬られ、今でも墓が残されているのを見ることができる。

 

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しかし、いつしかこの話が幕府の耳に入ることとなり、厳しい詮議を受けた町野幸重は数多の悪政が露見したため駿河から大阪へと度々の改易処分を受けた、と地元では言い伝えられている。

 

時は流れて昭和13年(1938年)、かつて鈴木三左衛門の屋敷があった所に「鈴木三太夫翁之碑」が、昭和27年(1952年)には現在のような「鈴木三太夫霊堂」が建設された。

 

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さらに昭和48年(1973年)には地元有志と大谷自治会が一体となり「鈴木三太夫霊堂」の敷地内に「義民の碑」と題する顕彰碑が立てられ、その偉勲を今に伝えているのである。

 

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また、鈴木三左衛門が処刑された中央農業高校の校内地には鈴木三太夫処刑の地であることを伝える塚と石碑が作られ、その由来は授業でも取り上げられ、今なお生徒に親しまれているのである。

(みうけんはこの学校の出身なのです)

 

現在でも、命日の4月27日には、この鈴木三太夫の霊堂に地元の人々が集まっては供養祭が執り行われ、命を賭して貧民を守ろうとした義民・鈴木三左衛門が、今なお地元の人々から崇敬され愛されているのを見る事ができるという。


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科学も発達していない江戸時代、戦乱の世から太平の世へと変わってはいるものの、あいも変わらず天変の地異や凶作、日照りなどによって百姓たちの暮らしは楽ではなかったという。

上に行けば行くほど下々の暮らしなど想像もできないのは今も昔も変わらないようであるが、この地域の名主として苦しむ領民の姿を日々見ていた鈴木三左衛門の心中はいかばかりであったろう。

 

いま、ここに鈴木三左衛門の冥福を祈り、霊堂に静かに手を合わせるとき、数多くの名もなき百姓たちのために首を切られた鈴木三左衛門の断末魔の叫びが聞こえるようで、一抹の悲哀を覚えるのである。

 

 

 

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