みうけんのヨコハマ原付紀行

愛車はヤマハのシグナスX。原付またいで、見たり聞いたり食べ歩いたり。風にまかせてただひたすらに、ふるさと横浜とその近辺を巡ります。

刑場の露と消えた罪人が病を癒す 寿光院の首切り地蔵(横須賀市)

横須賀の浦賀湾西側にある西浦賀の地は、かつては海運の要綱として栄え、また浦賀奉行所が出来て黒船来航の歴史舞台となるなど、その歴史は深いものがあるが、その西浦賀の閑静な住宅街の中に見渡すような広い空地があり、これこそが享保5年(1720年)に伊豆・下田よりこの地に移転してきた浦賀奉行所の跡地である。


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この奉行所は「舟改め」といって、各地を回る商船であった廻船の積荷を点検したり、海上警察、裁判所、海難救助など多くの役目を持っていた。現在でいう海上保安庁や税関、裁判所などの役割を一手に担っていたといえよう。

 

この奉行所も黒船が出没するようになると、江戸を防備する拠点として重要視されたが、今となってはその名残はまったくなく、周囲の掘割と、わずかに正門の石橋の残骸が放り投げられているのを見るくらいしか出来なくなってしまったのである。


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その奉行所跡の脇の道から路地に入っていくと、道はどんどん狭くなり小型車ですらすれ違えなくなる細い道であり、原付ならではの機動性でどんどんとたどっていくと、その奥には常福寺の仏堂である寿光院という小さなお堂が見えてくる。

 

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この寿光院は常福寺の隠居所としての境外仏道である、と説明版にはある。

咸臨丸の副艦長格としてアメリカに渡った、浦賀奉行所与力の浜口英幹の墓もあるという。

 

実際に行ってみるとこぢんまりとした小さなお堂で、なるほど寺院の隠居所として修行に専念するにふさわしい場であるかな、とも思う。

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今回注目したのは、このこぢんまりとした寿光院の入口の脇にあるひっそりとした地蔵堂であり、よく注意していないと見落としてしまいそうな地蔵堂ではあるのだが、清掃も行き届き、誰かが真新しい線香を供えた後のようで、今なお篤い信仰を受けながら丁寧にお祀りされているのがよく分かるのである。


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この中には一体の地蔵菩薩坐像が祀られており、立膝姿の地蔵菩薩坐像は今まで数多くの石仏を見た中でも珍しい物であり、その脇にはいつの物かわからないが青銅製の子育て地蔵が一緒に祀られているのが見て取れる。

このうち、この石造の地蔵菩薩坐像こそが不思議な伝説を今に伝える「寿光院の首切り地蔵」と呼ばれている地蔵菩薩なのである。


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この首切り地蔵は、別名三命地蔵ともいう。

時は元治元年(1864年)、江戸時代も終わりに近づいた第14代将軍、徳川家茂(いえもち)の頃である。

 

伊豆からやって来た弁天丸という舟が浦賀の港に着いたとき、この舟には松五郎、岩吉、忠蔵という三人の男が乗り組んでいた。

この男たちは普段からあまり金回りの良い方ではないのに遊ぶのが大好きで、この時も船主には黙って錨の綱を持ち出しては売り払い、その金を遊びに使ってしまったのである。

 

これに怒った船主は、この三人を盗人として浦賀奉行所に訴え、たちまち浦賀奉行所の厳しい取調べが始まるや否や、この三人は自らの犯した罪をあっさりと白状したのである。

 

所詮、盗んだものはただの縄。お咎めも大した事はなかろうと高をくくっていた三人であったが、船にとっての錨の綱は命綱にひとしい物、その命綱を奪うのは命を奪うのと同罪であるとして、この三人は死罪を申し付けられてしまったのである。

 

驚いた三人は慌てて命乞いをするがその甲斐もなく、浦賀燈明堂の首切り場へと引っ立てられて首を刎ねられた。元治元年(1864年)3月21日の事である。

 

この際、この三人は再び故郷の伊豆の地を踏む事がかなわないことを大いに嘆き悲しみながらも、「もし、我らをこの浦賀の地でねんごろに葬ってくれるのであれば、首から上の病は何でも治してやろう」と言い残して首を刎ねられたという事である。

 

船主であった「師崎屋」(もろさきや)は、この三人の願いを聞いてやり、寿光院に地蔵堂を作って手厚く葬ると、この地蔵菩薩は首から上の病は何でも治してくれるとの評判を呼び、頭痛、耳や鼻や虫歯などに悩む里人が参詣する姿が後をたたなかったという。

 

やがて医療も科学も発達して、それらの治療はすっかり近代医学の担うところとなっていったが、今なおこの首切り地蔵堂には真新しい花と線香が供えられ、錫杖にかけられた千羽鶴が今なお絶えることのない信仰を如実にあらわしているのである。