横浜市のはずれ、相鉄いずみの線のいずみ中央駅を降り、駅前の長後街道を西に進むとゆるい上り坂となり、その中途に中和田公園という静かな児童公園がある。
訪問時は平日の昼間ということもあろう、訪れる人もまばらな実に静かな公園であるが、古来よりこの近辺は「いざ鎌倉」の鎌倉みちが通り、近世になってからは大山詣でのための大山道が整備されるなど交通の要所として栄えた場所でもある。
特に、鎌倉みちは時代により多少の変遷はあるものの主要な道は上・中・下と3本あり、碓氷峠から高崎、所沢、町田、長津田と経由して現在の上飯田や下飯田に繋がる「上の道」は「いざ鎌倉」の号令が発せられた有事の場合に使われる、軍事用の道路としての性格が強いとされている。
鎌倉幕府の時代は戦乱が多く、特に鎌倉幕府が成立する前後や滅亡する前後では周囲は戦乱に明け暮れる日々が続いていた。
それにしたがって、鎌倉に近い地域や、鎌倉へ馳せ参じる武将たちが通る鎌倉みちの周辺でも戦乱が数多く起こっては死者を葬る「塚」がいくつも作られたために、塚という文字を入れた名前の地名が多く、この中和田公園がある場所もかつては「八つ塚」と呼ばれていたのである。
今から遡ること800年の昔、建保元年(1213年)には鎌倉幕府御家人であった泉親衡(いずみちかひら)が、源頼家の遺児であった千寿丸を鎌倉殿に擁立し、執権北条義時を打倒しようとし合戦となった「泉親衡の乱」(いずみちかひらのらん)が勃発した。
鎌倉幕府の二代将軍将軍、源頼家が暗殺され、北条氏によって源実朝が将軍に擁立されていたが、千葉成胤という武将のところへ僧がやってきて、北条家打倒への協力を求めてきた。
僧の目論見は外れて捕縛されてしまうと、自らは泉親衡の家来である青栗七郎の弟だと名乗り、反北条連合の将兵の名前が自白された。
激怒した北条義時は直ちに兵を差し向け、和田義盛の子である義直や義重、甥の胤長ら十数人が直ちに捕縛されたが、和田義盛自身は上総国に出向いており難を逃れたという。
いっぽう、泉親衡も攻撃されるが逃亡してしまい、その後の消息は知られておらず野に下ったとも落ち武者狩りで殺されたとも伝えられている。
この中和田公園からいずみ中央駅を挟んで反対側には泉親衡の居館であった中和田城址が公園として残されており、現在の長後街道やいずみ中央駅近辺でも激しい戦が展開された事だろうか。
その時の亡骸は敵味方の区別もなく埋められて八つの塚になった。この塚も明治の頃まではこんもりと残っていたが、製糸工場建設のため削られてしまい、それ以降は夜な夜な首のない武者の霊が歩くとか、この脇にあった消防署では深夜仮眠を取っていると誰もいないのに揺さぶり起こされたり、周囲で店を開けば長持ちせずにつぶれてしまうなど、だいぶ恐れられたようである。
その後の明治38年(1905年)、当地の大地主であった持田家が日露戦役記念として土地を当時の中和田村に寄付し、招魂社という戦没者をまつる神社になった。
現在は招魂社はないが、忠魂碑、石井広助之碑、山田先生頌徳之碑、持田初治郎君頌徳之碑、山田先生顕彰碑など立ち並び、公園内に茂る松や桜の大木は付近の住民の目を楽しませているのである。
この写真を撮った時は、何の工事をしているのかは分からないが(公園整備工事とのみ記載)忠魂碑などはすべて近づけないように囲いがされていた。
今では地元の住民が時折訪れては、子供を遊ばせたり犬を散歩させる静かな公園ではあるが、ここにもかつて、数多くの名もなき武将や足軽たちが血で血を洗う戦いを繰り広げ、後々まで怪談として語りつがれるようになろうとは、世のはかなさと時代の流れの速さをひしひしと感じるようである。