神奈川県民の水がめである宮ヶ瀬湖より東がわ、交通量も少ない国道412号線を原付で駆け抜けていく。
やがて中津川の清流を眼下にのぞむ山並みの中腹に、清雲寺という臨済宗建長寺派の古刹が見えてくる。
山奥深く、門前の眼下には中津川と半原ののどかな街並みをのぞみ、春ともなれば桜が咲き誇るさまが実に美しい花の寺でもある中で、簡素で素朴な山門に足を止める人がどれほどいる事だろう。
この、飾り気もなく豪華さも感じられない清雲寺の門。
この門には、今なお語り継がれている怪力の僧の不思議な伝説が伝わるのである。
今から遡ること180年の昔、天保年間というから江戸時代も末期に差しかかろうという頃。
この寺に、善正坊という力自慢の僧がいた。
この善正坊は常日頃から、清雲寺は山門すらない貧しく小さな寺である事を気にしていたが、ある日、中津川は馬渡の河原に役人が集まり、何やら木材を集めて大変な賑わいである。
聞けば江戸城を改修すべく材木を集めて、川に流して海を渡り江戸まで運ぶという木流しの最中だというので、善正坊はさっそく役人の元へ行き「寺に山門を作りたいので、木材を少しばかり分けてもらえないか」と役人に頼みこんだのである。
幕府御用の木材、そうやすやすと譲るわけにはゆかぬ。しかしお坊様がこうして頭を下げて頼みに来ているので、無下に断るわけにもゆかぬ。
そこで、役人は「お坊様が一度に持てるだけの材木ならば、お譲りしよう」という事にしたのである。
喜んだ善正坊はさっそく寺に戻り、一脚の背負子を持ってくると、一抱えもあるような太くて立派な材木を背負子に山と積み上げ始めた。
そんなもの、大人が十人よったかてビクともせぬ。それを坊さん一人で山の上まで運ぶとは、見もの見もの。
人足は笑い、役人はほくそ笑んでいたが、善正坊は山ほどまでに積み上げたケヤキの材木を涼しい顔をして一気に背負うと、驚きのあまり口も閉じられぬままの役人に深々と礼を言い、一息に寺に運びこみ、この山門を建立したのだという。
この怪力の僧の話はたちまち評判となり、この山門はいつしか「ひとしょい門(一背負い門)」と呼ばれ、今なお清雲寺の山門として立ち続けているのである。
いま、この不思議なひとしょい門をくぐれば、あまりの耳の長さに、一見して女の子かと見紛うような地蔵菩薩が並び、境内は静寂そのものである。
門前には桜が咲き乱れ、その桜の木の根元に立てばはるかに広がる半原の里と、中津川の清流が今も昔も変わる事なく、その風光明媚さを伝えているのである。
このひとしょい門を背後に河岸段丘の端に立ち、中津川の河原を眺めていると、かつて善正坊が眺めた風景がよみがえり、すぐ下にはたくさんの材木が積まれているさまが思い浮かばれ、ここにも民話というものの面白さを垣間見る事ができるのである。