(前篇・「い」の池編からつづき)
港北区師岡に残された「いのちの池」のうち「い」の池の見学を終えて、歩みを「の」の池に進めることとする。
「の」の池は師岡熊野神社の境内の奥にあり、それ程規模は大きくはないものの今でもきちんと整備され、水をたたえている。
今年は平成が終わり、令和へと変わる年。
街の中にはこのような横断幕を時折見るようになり、感慨深いものがある。
石段を登りきると、実に秀麗明媚なる本殿が見えてきて、参拝合掌する人は一向に絶えず、その会話には遠くの地からの訛りも混じり、この師岡熊野神社がいかに幅広く多くの人から愛され、崇敬されているのかを知ることができるのである。
本殿の神様に参拝し、上を見上げれば欄間に彫りこまれた龍もひげの1本1本、うろこの1枚1枚に至るまで緻密に彫りこまれており、いにしへの宮大工の技術の高さをうかがい知ることができよう。
この師岡熊野神社の境内、本殿の裏側の、昼なお薄暗く竹林がうっそうと茂る裏山の麓に、師岡の「いのちの池」を構成する「の」の池が今なお水をたたえており、神社と地元氏子たちによって大切に守られているのを見ることができる。
この師岡熊野神社は、この地域の歴史や風俗にも長い間に渡り大きな影響力を持ち続けてきた。地域史料「横浜の地名」によると、師岡町周辺の地名で見れば「獅子ヶ谷」という地名は祭りの際に代々獅子舞をの踊りを奉納する家があったことから、また大豆戸町は神様に奉納する大豆を生産していた地区を示し、樽町はやはり祭りの時などに神酒を献上する、またはその為の大樽を奉納していたことから、さらに駒岡町は神馬を奉納し、大口は勅使が大口袴に着替えて拝殿した場所であったから、との記載がある。
昔から大きな寺院や神社の周囲では、その寺社に対する氏子衆たちの役割分担が決められており、それがそのまま地名になった典型的な例といえよう。
さて、話を戻して神社境内にある「の」の池についてである。
「の」の池は、20年ほど前にはもう少し開かれた場所に水たまりのような池があって注連縄で囲われていたと思うのだが、みうけんの記憶違いであろうか。今回見に行った時には境内の奥深くにあり、きちんとコンクリートで固められ、大きさもいくぶん大きくなっているように見える。
この「の」の池も、一般には「い」の池のようにひらがなの「の」の字のように見える、真上から見れば真ん丸な円形に見えたことから「の」の池と呼ばれるようになった、と言い伝えられている。
この神社はもともと師岡熊野神社の草創の地である、と説明版にあるように、かつてはこの池じたいがご神体として扱われたのであろう。
「の」の池は、どんな日照りにも決して枯れることなく水をたたえ続け、かつて社殿が落雷による火災に遭った時も「の」の池のの中にご神体や社宝を投げ入れ沈めたことにより、焼失から守ったと言い伝えられているのである。
時代は平成から令和に変わろうとしている現代でも、毎年1月14日には筒粥神事(つつがゆしんじ)というお祭りが開かれ、この池の水でお粥を煮て、その出来で一年の吉凶を占い、神様に幸せを祈るという。
この「の」の池の脇には、馬頭観音や青面金剛、地神塔が祀られており、さらにここに合祀された社が並び、それぞれに丁寧に説明文が付けられており実にわかりやすい。
そんな一角には石のようなコンクリートのような質感の石板に、ただ「水神宮」とだけ掘られた粗末な石神があり、作りは稚拙ながらもきちんと注連縄がかけられて大切に祀られている。
これはただの石板のように見えて、もとは「いのちの池」のうち「ち」の池の脇に祀られ、大切にされていた水神様である。
御名を「弥都波能売神」(みずはのめのかみ)という日本の神様の中でも典型的な水神様で、絵画や造像のなかでは女神であることが多い。
その他にも、説明版が何もなくバラバラになってしまった五輪塔がちらばり、今となってはお参りする人もなさそうな無名の石仏や五輪塔にも、きちんとお参りしている方がいるようでお酒やお賽銭をお供えしてあるのが見て取れる。
いま、この五輪塔や水神様の前に立ち、決して涸れないという「の」の池の不思議な伝説と、悲しくも移転してしまった「ち」の池の水神様に思いを馳せながら、最後となる「ち」の池へと歩みを進めることとする。
(後篇・「ち」の池編へつづく)