東急東横線の大倉山駅を降りて綱島街道に出る。そのまま字の通り綱島方面へ向かい、途中で住宅街に入って行く細い路地を進むと、八咫烏信仰がサッカーW杯に勝利をもたらすとされ、若者にも信仰を受けている師岡の熊野神社がある。
この神社の前にはかつて農業用のため池でありながら不思議な伝説を残した「いの池」がある。
「いの池」は、ひらがなの「い」の形をしていることから、いつの時代からなのかは不明だが「いの池」と呼ばれるようになったそうで、この池の水をさらうと雨が降るという言い伝えがあり、昔は池で雨乞いが行われたそうであり、承安4年(1184年)に日照りが続いた時は、延郎上人が12体のの竜頭をつくり、八大竜王を招くと、三日三晩、大雨が降り田畑の作物を生き返らせたのだという。
今となっては宅地化が進み、新しく移り住んできた若い世代も増えた。
「い」の池に始まる「いのちの池」と呼ばれる3か所の池がこの近隣の農業を支え、ひいては人々の暮らしを支えた事を知る住民もだいぶ減りつつあるようであるが、この師岡熊野神社の向かいにある「いの池」こそが、聞くも珍しき片目の鯉の伝説を今に伝える池なのである。
今からはるか昔、奈良に都があったころ。
ここ師岡の里で修業をしていた行者の夢に、奈良の熊野権現様があらわれて
「わしは奈良の熊野権現である。そなたが住む師岡の里には多くの邪鬼がおり民を苦しめている。そこで、わしが師岡へ赴き邪鬼を退治し、師岡の民を助けてやろう。そのために、そなたは奈良の春日へきて修行をするがよい。さすれば、わしはそなたに会う事ができよう」というお告げをくだされた。
その行者はすぐさま奈良へと出かけ、春日の里にこもって修行を始めたが数日のうちに権現様に会うことが出来た。行者は権現様の言いつけの通りに権現様の像を背負って師岡の里まで戻ろうと山を越え、川を越え、遠い遠い道のりを歩き続けたがついに力尽きて座り込んでしまった。
そこで権現様は「わしがそなたを背負ってやろう」と言い行者を背負うと、気が付けばそこはもう師岡の里であった。
行者は驚きながら師岡の熊野社を案内するが、村人にとってはどこの馬の骨とも知れぬよそ者に見えたのか権現様に冷たくあたり、中には弓矢を射掛けて追い出してしまおうとする者まで出る有様であった。
その矢は、幸か不幸か権現様の目に当たったが権現様は身じろぎひとつせず、池の所へ行き鯉を呼び寄せ、鯉に片目を差し出すよう頼むと鯉が目玉を差し出すので、たちまち自分の目を付け替えてしまったのである。
その一部始終を見た村人は己の理解の無さと無謀なふるまいを恥じ、権現様にひれ伏してはここ師岡の里にお留まり下さいと懇願するので、権現様もこの場所に留まることとなったのである。
この話はたちまち近隣の村々の評判となるが、世の中善人だけではないのが常である。「ジャジャジャーン。いつの世にも、悪は絶えない。」のである。
ある盗人が、「い」の池からたいそう立派な鯉を盗み出した。これは高く売れるぞと、さっそく六角橋の市へ持っていき売ろうとしたが、その鯉には片目がない。
人々は口々に「これは権現様のいる『い』の池の鯉ではないか。今に罰があたるぞ」と言って逃げていくので、盗人は恐ろしくなり、この鯉をあわてて池に戻したという。
それからは、この「い」の池には片目の鯉が代を継ぎ、今でも泳ぎ続けているのだという。
今となっては数多くの亀が甲羅干しをし、水のなかには立派な鯉がたくさん泳いでいるが、その中のどこかに片目の鯉がいるのかもしれない。
この「い」の池の中央には、「江戸名所図絵」で紹介された弁天様が今でもうやうやしく祀られ、この時も数組の親子連れがお賽銭をあげ真剣に拝む姿が見られた。
ここにも民の信仰なお生きたり、かなである。
ここ師岡熊野神社では弁天様の縁日である毎年8月1日には盛大な神事が行われており、何年か前に見に行った記憶がある。
この弁天様が向き合う向かい側に、今なお霊験あらたかで多くの信仰を集める師岡熊野神社があるのである。
いま、この「い」の池のほとりにたたずみ、たくさんの鯉が悠々と泳ぐのを眺める時、師岡の地から奈良まで歩く古の人の強さと、鯉に片目を求めるという自由な発想の中に、かつての日本人の想像力の豊かさと神仏への畏敬を感じるのである。
(中篇・「の」の池編へつづく)