春まだ浅き日、愛車のJOGを走らせてお墓参りに行った後、平塚にある高麗山のふもとから山道をグングンと走らせて登り続けた。
途中、いくつかのカーブを越えて、ますます急峻な坂を上れば、その辺りはかつての愛車であった日産のセレナではとうてい曲がれないであろう、細いカーブ道へと変わっていった。
途中、林道のような道へと変わって舗装も途切れ、いくつかの沢のぬかるみを注意しながら越えて行き、昼なお暗く森林はうっそうとして、原付ではもはやここまでという所まで登ってきたのである。
ここから、しばらく粗末な造りの階段を上がって行く。この道はきっと、今の時期だから良いのだろう。夏の暑い日に来ようものなら、かなりのヤブ蚊に苛まれそうな道である。
そんな山道をずっと上がって行くと、突如として山肌にはいくつもの横穴が口を開け、訪れる人もなくただただ静寂と、まるであの世から人を招いているかのような暗黒の横穴が口を開ける空間が広がるが、これこそが神奈川県を代表する古墳時代後期の横穴墓群である楊谷寺(ようこくじ)谷戸横穴墓群であり、神奈川県尾指定史跡にもなっている。
これは、古墳時代後期に構築された横穴古墳というもので、従来の大きく土を盛って作った古墳の後に一般的になったもので、当時の有力者たちの墓であろうと言われている。
何度かの発掘調査を経るうち、出土品は古墳時代のものだけではなく、きっと後世になっても墓として、家として、さまざまな使われ方をしてきたのであろう。
横穴古墳といえば、横浜市の市ヶ尾横穴墓群や港北区の常真寺裏横穴墓群、西方寺裏横穴墓群のように通常はアーチ型をしていることが多く、もちろんこの横穴古墳群にもそのような造築例が多い。
しかし、中には全国でも珍しい家型の横穴墓などもあり、今なお固い岩肌には当時の工具の跡がしっかりと残り、その技術の高さがよく偲ばれるのである。
また、墓の入口には大きく掘り下げて円形の囲みをつけたものもあり、かつてはここに蓋をはめ込み、前庭には花や食べ物でも備えていた時もあったのだろう。
その入口の両端には、いつのものかは分からないものの、蓋をはめ込むためのくぼみを作っているものもあり、細部にわたるまで実に丁寧な作りこみである。
みうけんは、いままで数多くの横穴古墳を見に行ったのだが、この楊谷寺(ようこくじ)谷戸横穴墓群の築造技術の高さ、芸術性の高さ、保存性の良さは今まで見た横穴墓群とは一味も二味も違い、史跡保護には興味のないであろう神奈川県が指定史跡とするのも良くうなずけるのである。
しかし、どこの世界にも墓地を冒涜する者はいるものだ。
こんな深い山奥に、しかも身軽でないと登れないような崖の中腹の横穴に、わざわざ空き瓶を持って来ては捨ててあるのが不思議でならない。
普通に集積場に出した方が、よっぽど楽ではないのかと思ってしまうものだが。
この近辺はうっそうとした山林であり、昔の人は愛する家族の亡きがらをかついでこの山道を上り、葬送の歌でも歌いながら、またはすすり泣きながら故人を偲び、この横穴墓群へと手厚く葬ったのであろうか。
いま、この横穴墓の前に立ち、沢の音と小鳥のさえずり、木々が風に揺れ触れ合う音を聞きながらどこまでも続く森林を眺めているとき、かつてこの丘を登ってきては家族との別れを告げにきた太古の人の姿が目に浮かんでくるようで、その感慨もひとしおである。