京浜急行三浦海岸駅を降り、駅前の通りを海に向かって歩いていくと、海を一望する三浦海岸交差点につく。
そこから海沿いの道を南下し、走湯神社入り口の交差点を折れて静かな海沿いの街を歩くと、静かでひなびた趣のある古刹にたどり着く事ができる。
このお寺は金田山清伝寺(かねださん せいでんじ)という臨済宗建長寺派のお寺で、開山は建武年間(1334〜1336年)という古刹である。
建武年間といえば南北朝時代にあたり、室町幕府初代将軍となる足利尊氏が諸国を転戦していたころであるから、その歴史は古く由緒も正しい。
現在の本堂は寛政7年(1795)年に建てられた本堂をもとに、昭和51年(1976)に再建されたものであるが、やはり江戸時代の風格がよく再現されているように思う。
寛政7年(1795)年といえば、鬼平犯科帳で有名な長谷川宣以(平蔵)が亡くなった年であり、ここにも時代を感じるのである。
この寺の脇には「すずの川」と呼ばれる小川が流れており、たくさんのスズキが川を上ってきたからつけられた名前だと言われ、この川とお寺には古くから伝わるカッパの伝説が今に伝えられている。
このあたりはかつて、鬱蒼とした森林に包まれた昼なお暗い寂しいところで、すずの川にはいたずら好きのカッパが住み着いて悪さばかりするので、村人たちはほとほと困り果てていた。
ある日、1人の農夫が馬を連れてきて杭に縄をかけるが、何度かけなおしても縄は外れてしまう。
こんなはずはない、この杭はカッパが化けていたずらをしているに違いない───。
そう察した農夫は、杭に縄をぐるぐる巻きにして、ほどけないようにがんじがらめにしてしまった。
さしものカッパもたまらずに杭に化けていた己の姿を元に戻したが、いくらもがいても縄はほどけず、騒ぎをききつけた村人たちがわらわらと集まると、今までの仕返しとばかりにカッパを袋叩きにしたのである。
その騒ぎを聞いた清伝寺の和尚が駆けつけると、カッパは泣いて詫びたので、和尚は今までのカッパの非をこんこんと諭し、すっかり心を入れ替えたカッパは寺に詫び証文を納めると、二度と悪さをしなくなったという。
いま、この川にはカッパの姿を見ることはないが、可愛らしい塑像の猫地蔵菩薩なども建立されている。
本堂の脇には、今となっては手を合わせる人もまばらな無縁の墓が並ぶ。
その多くは戒名に「童子」「童女」とある事から子供の墓が多い事もわかるが、今ほど医療も食生活も良くなかった時代であり、小さく体力もない子供達が生きのびる事は今では想像もできぬほど大変だったのだろう。
いま、この寂しげな無縁の墓にそっと手を合わせる時、元気でいたずら好きのカッパに我が子の姿を重ね、その反面で素直にまっすぐ育って欲しいという親のささやかな願いが垣間見えるようで、その時代を必死に生き抜いた里人とカッパたちに、ただ思いを馳せるのである。