当ブログでは過去に何度か三浦半島の戦争遺跡を取り上げてきたが、神奈川県内の海に近いとあるお寺にも、知る人ぞ知る戦争遺跡がひっそりと眠っている。
ご住職からは、あまり派手に宣伝しないでくれとの事だったのでお寺の詳細は伏せるのだが、観光客はまず来ないであろう小さなお寺に行き御本尊様にまず参拝すると、本堂のすぐわきに入り口があるのでとても分かりやすい。
その入り口の両脇には「陸軍伍長 某」や「陸軍水兵 某」と書かれた、旧日本軍兵士のお墓が並んでいるのが見える。
戦時中、兵士だった頃にこの穴をツルハシと根性で掘ったという方にお話を聞くことができた。
その方は今でいう高校生くらいの頃、学校ではほとんど勉強などできなかった。学校では農作業と体罰ばかりの軍事教練に明け暮れ、また応招され兵士となった後は、皆でお寺の本堂脇に洞窟陣地を掘りながら、お寺や洞窟陣地に終戦まで駐屯していたのだそうだ。
神奈川県は帝都東京を防衛する要として、特に海岸近くのいたるところに飛行場、砲陣地、洞窟陣地、特攻基地などが作られ、このお寺の近くにはとても大きな洞窟陣地や高射砲陣地もあった。
今回、特別にご住職に許可を頂き、懐中電灯までお借りして(爆)、内部を探検してみた。
まず入ると、物置としても利用されている。これは防空壕や洞窟陣地の跡地にはよくあること。
入ってすぐ脇に小さなスペースがある。「歩哨というかね、門番がいたんだ」との事。
中は深く、かなり入り組んでいる。
お寺の境内にあり、通常は誰も入らないため不法投棄されたゴミなどがなく、実に歩きやすい。
無線機やラジオ、照明を置いていた台だとのこと。実際に見ると大きく、丁寧に彫り込まれている。
中はいくつも枝分かれして、入り組んでいる。それにしても、崩れずによく残っているものだ。
他にも開口部がある。
入り口が埋まっていて、かろうじて開口しているといった程度。
上の開口部を内側から見ると、こう。
開口部というよりも簡易な銃眼やのぞき穴のような印象をうける。
棲息部。
左の灯り置きの上に、今でも黒いススがついており、いたく懐かしがられていた。
このお寺の前には、現在は駐車場としている広場があり、そこには当時は兵舎もあったが狭いので近隣のお宅も詰め所として使われたのだという。
近くには大きな砲台があり、その砲台を補完する施設で、平時は防空壕であると同時に敵が上陸してきた際の抵抗拠点=洞窟陣地として掘られたのだという。
お話によれば、この穴は階段でもっと上につながり、そこから敵が来るのを待ち構えられるようになっていたのだが、幸か不幸か一度も実戦を経験せずに終戦になったそうである。
みうけんは高いところと、暗くて狭い所が苦手なので入り口から少ししか入ってないのだが、それでも中で迷ってしまいかなり焦ってしまった。
それくらい、中は奥が深いのだ。
日本が戦争に負けたと分かった時、やっと終わったが、これからどうなるのかという漠然な不安。
武装解除で所持していた武器を、近くにあった基地に持っていき、代わりに海軍用の食糧をたくさんもらって帰ったこと。
その基地では戦犯になるのを恐れた将校が切腹を試みたこと。
徹底抗戦を叫ぶグループが武装解除に応じず、かつての上官に説得されたこと。
拳銃や軍刀を持ち帰る輩が後を絶たなかったことなど。
もらった食糧はすぐに底をつき、戦争が終わった後にやってきた進駐軍兵士の横暴におののき、空腹とシラミとの戦争の日々だったこと。
今まで鬼畜米英と声を張り上げていた女性たちが、食うためとはいえ真っ先にパンパンに身を落として拍子抜けしたこと。
たくさんのお話をいただき感慨も深い。
今は近隣の高校生が部活の練習でランニングをする自然豊かな静かな街だが、あの高校生くらいのあどけなさ残る少年たちが粗末な軍服に身を包み、親元を離れ、いざ決戦という時は暗くホコリまみれの洞窟陣地で戦う決意をしていた時代が確かにあったのだ。
寄せては返すさざなみの音、空を旋回するトンビの鳴き声、遠ざかっていく学生たちの掛け声に寺の鐘がわびしく共鳴するとき、今のかけがえのない平和は決して失ってはならないと、しみじみ思い出されるのである。
(この記事は平成23年に旧SNSに掲載したものを再編集したものです)