みうけんのヨコハマ原付紀行

愛車はヤマハのシグナスX。原付またいで、見たり聞いたり食べ歩いたり。風にまかせてただひたすらに、ふるさと横浜とその近辺を巡ります。※現在アップしている「歴史と民話とツーリング」の記事は緊急事態宣言発令前に取材したものです。

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時代の波に消えゆく 義士塚の悲話(三浦市)

今から600年の昔───

神奈川県の三浦半島には、平安の昔より続く 三浦一族という豪族が勢力を保っていた。

その中でも、特に有名なのが、この二人。(英雄百首より)

 

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三浦一族最後の首領といわれる、三浦道寸義同(みうらどうすんよしあつ)公と、道寸の子である三浦荒次郎義意(みうらあらじろうよしおき)公である。

 

この三浦市の真ん中には、今でも引橋という地名のついた交差点がある。


 

ここから少し南に下ると、今では立派なコンクリートの陸橋になっているが、ここが紛れもない「引橋」のあったところと言われている。

 

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三浦一族の拠点である新井城(現在の油壺マリンパークのあたり)に行くには、どうしてもここにかかった橋を渡らねばならなかった。


しかし、いざ敵が攻めて来る時には橋を引いて渡れなくしてしまうので、引橋という名前が今でも残っている。

 

ある日、三浦一族は北条早雲ひきいる北条一族と対立を深めていく。
永正九年(1512年)、織田信長徳川家康が生まれる20数年ほど前、平塚の岡崎城を奪われた事をきっかけに三浦半島まで追い詰められた三浦一族は、網代にあった新井城に立てこもり、最後の抵抗を始める事となる。


三浦一族の最後のとりでとなった新井城は、三方を海に囲まれ、つながる陸地ですら堀や柵で幾重にも囲まれ、敵を寄せ付けない名城であった。

さすがの北条早雲も攻めあぐね、城を取り囲んで食糧を絶つ「兵糧攻め」に取り掛かる。 さすがの新井城もこれにはかなわず、三年間たてこもったものの武士たちの食べるものはおろか、矢や衣服、暖を取る燃料など、全てに事欠くようになり、兵士の士気はますます下がり、もはや戦どころの話ではなくなりつつあった。


───もはやこれまで───


そう覚悟を決め、新井城から敵陣に切り込んだ一人の男がいた。
その名も三浦荒次郎義意。

 

三浦道寸の子にして、弱冠ながら身の丈は七尺五寸、今にして2メートル27センチ。
当時としてもかなりの巨漢であるばかりか、筋骨隆々として髭は濃く、八十五人力と評されるほどの勇猛果敢ぶりである。

その男が新井城を飛び出すや、また2メートルを越える金棒を振り回して縦横無尽に切り進むからたまらない。

 

「あの男を斬れ、褒美は思いのままぞ───」

 

叫ぶ武者の叫び声もむなしく、北条方の軍勢はそのあまりのすさまじさに、ただ見ているしかなかった。

 

・・・が、その中でも豪勇の誉れ高い若武者四人が先陣を切り、荒次郎義意に立ち向かっていった。


しかし、北条の中でも豪勇で知られた四人ですら、たちまち倒されねじふせられ、荒次郎義意の刃はこの四人に向けられた。

 

すっかり覚悟を決めた四人であったが、「その武者ぶり、まことに天晴れなり。いまここで討ち取るのはたやすいが、これほどの人物なら、必ず世の為に役立つであろう」と、その勇敢を惜しんみ、許したと言われている。

この時に、この四人はいつかこの恩に報いようと固く心に誓ったのであった。


しかし、それから程なくして、追い詰められた荒次郎義意は自らの首を掻き切って自害。

道寸義同率いる三浦一族は、そろって切りあい、城の崖下の湾に身を投げ、入り江の海水は血と油で真っ赤に染まり、油壺の名の由来となる程であった。

 

この時の四人は荒次郎義意と道寸義同が死んだ事を知るや、その恩義に報いるときは今と、道寸父子の後を追い自刃してしまった。

この哀話を聞いた村人達は、四人が自刃した地に塚を2つ造り、この若武者四人をねんごろに弔ったと言われている。

 

 

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いま、この義士塚にはささやかな花生けが設けられ、時折誰かが供養しているのであろうか、枯れた花が挿さっていた。


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往時はこの辺りは雑草が生い茂り、人も馬も近寄ると祟りがあると言われ、近寄るものは誰一人としていなかったという。

しかし、平成も終わりが近づいた今となっては周囲は農地として切りひらかれ、2つある義士塚のうち1つは半分が切り崩され住宅になってしまい、近くで犬の散歩をしていた女性や、子供を遊ばせていた親などは由来どころか義士塚という名前すら知らなかった、とのことであった。


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今となっては上空からのトンビの鳴き声しか聞こえない平和そのものの農村で、かつてここが戦場であったことを偲ぶよすがも無いが、この義士塚からは昔のまま新井城を望むことができる。


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この高台に立ち新井城址を眺めながらかつての武士の鬨の声と馬のいななき、並びたつ旗のぼりに思いを馳せるとき、昔と変わらぬ夕日に映える草や木々にも、何か人の世の移り変わりの哀れさが感じられるのである。 

 

(これは旧サイトの記事を再編集したものです)

  

 

 

 

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