みうけんのヨコハマ原付紀行

愛車はヤマハのシグナスX。原付またいで、見たり聞いたり食べ歩いたり。風にまかせてただひたすらに、ふるさと横浜とその近辺を巡ります。

忘れ去られて久しき 元屋敷公園と宮田貞明居館の跡(三浦市)

別記事「下宮田の山村に伝わる虚無僧の伝説(三浦市)」の取材をするうち、宮田貞明という名が出てきたことに興味を持ち、少しネットで調べてみると下宮田に元屋敷公園というのがあり、それこそが三浦一族の末裔としてこの宮田を治めた宮田貞明の屋敷跡だという。

 

 

「下宮田の山村に伝わる虚無僧の伝説(三浦市)」でも紹介したように、宮田太郎貞明は佐原義連→佐原盛連→佐原時連→杉本宗明→三浦時明→三浦貞連→宮田貞明→宮田貞澄→宮田貞泰→宮田藤貞→宮田義三と続いている三浦一族の末裔で、その名前からこの宮田地区を治めていたのであろうことは想像に難くない。

 

宮田貞明に伝わる伝承が何かないか史料を漁ってみると、江戸末期となった文化9年に刊行された「三浦古尋録」というものがあり、それによれば

「元屋敷。是ハ宮田ノ太郎ノ舘跡ト云フ。宮田ノ太郎ハ佐原時連ノ子孫ナリ」とだけ記述があり、さらに今でも残る元屋敷の地名の由来でもあるのだろう。

 

現在、人気もまばらな丘の上の畑の脇に、農道に面した入り口があり、石に掘られた門標には「宮田貞明主従墓域」「元屋敷公園」の文字を読み取ることができる。

 

f:id:yokohamamiuken:20190306114325j:image

 

元屋敷公園とはいえ、そこには児童の遊ぶ楽しげな声も遊具もなく、ただ奥に入っていくと、ほどなくして「宮田貞明館趾碑」が見え、その背後には一面の畑が続いているのみなのである。


f:id:yokohamamiuken:20190306114330j:image
f:id:yokohamamiuken:20190306114305j:image

 

この石碑は貝の化石で作られた台座に立ち、その裏には「男爵三浦英太郎筆」による「宮田貞明館址碑陰銘」が記され「宮田貞明太郎という者は三浦義明の八代後の孫である。宮田郷にて家人岩上六郎、池代入道等と領した。農耕、織物を奨励し民への教育を怠らなかった。館の跡には手植えの松があったが老化と風により倒れたので、花の樹を植えて祠も祀った。云々」といったような趣旨の事が大正10年の日付と共に刻まれている。

 

確かに、周囲を見渡せば人家の裏に石の祠や五輪塔の残欠がのこり、今となっては手を合わせる人もまばらながら、地元の住民たちによりよく守られ大切にされているのが見てとれるのである。


f:id:yokohamamiuken:20190306114320j:image
f:id:yokohamamiuken:20190306114315j:image
f:id:yokohamamiuken:20190306114310j:image

 

いま、この近辺ではその境こそ漠然としないものの、「岩神(いわがみ)」と呼ばれる地域があり、そのさらに北側の地区を「元屋敷」と言うことから、この祠が岩神だとすれば、この場所よりも北側の、いまは畑となっているところが館の址だったのかもしれない。

 

ちなみに「宮田貞明館址碑陰銘」を記述された三浦英太郎男爵とは、古く三浦道寸公の子孫であり、江戸の末期に三浦長門守となり紀州家に仕えたのち、明治政府か男爵の位を賜った人とされている。

 

いまなおさびしく人気もない三浦半島の山奥に、かつての領主三浦一族とその子孫たちの営みが今なお連綿と続き、その歴史の証がそこここに残ることを思うとき、領民の生活の向上と発展に尽力した名もなき領主・宮田貞明公とその主従の鬨の声が畑にこだまし旗幟がはためく姿が目に浮かぶようで、一抹の感慨をさそうのである。