みうけんのヨコハマ原付紀行

愛車はヤマハのシグナスX。原付またいで、見たり聞いたり食べ歩いたり。風にまかせてただひたすらに、ふるさと横浜とその近辺を巡ります。※現在アップしている「歴史と民話とツーリング」の記事は緊急事態宣言発令前に取材したものです。

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無残に破壊された 雑色杉本遺跡(横浜市港南区)

京浜急行上大岡駅からバスに乗り氷取沢方面に向かうと、打越というバス停があり、そこから坂を登りきったところに笹下中央公園という、空がとても広い児童公園がある。

 

 

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古来、この地域には笹下城と呼ばれる北条家家臣間宮家の城があり、特にこの公園がある近辺は重臣北見掃部のかつての屋敷跡と伝えられ、さらに遡れば縄文時代から古墳時代にかけての遺跡が良好に残されていたという、歴史的にも由緒正しい地域であり、この公園の片隅にはきちんとその旨も記載された案内板が立ち、この遺跡は公園下に保存されていると記載があるのが読み取れるのである。


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この公園に立つと、古代の人はこの高台から同じような光景を見ていたのか。

今でこそ宅地開発はされたものの、きっとこの風のさわやかさ、見晴らしの良さは昔から変わっていないに違いない。そう思うと興味がわいてきて、このような文献を引っ張り出してきた。

 

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雑色杉本遺跡 発掘調査報告。

1996年(平成8年)発行、横浜市道路局と財団法人・横浜市ふるさと歴史財団の発行となっている。

かつて、この地域は笹下城の城域であり大切岸と呼ばれる曲がりくねり切り立った崖がそびえていたが、環状2号線を通すに当たりこの遺跡を発掘調査したとの記載がある。

その時の測量調査図と、現在のGoogle MAPを重ね合わせたのがこちら。

 

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地図上斜線部分が今回発掘調査された地域であるが、見事に環状2号線にかぶっているのがわかる。

 

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さらに、発掘調査報告書の「調査に至る経緯」では「横浜市文化財地図(横浜市教育委員会 1984)に「港南区№64・65(雑色杉本遺跡)」として記載」され、「台地上の畑地部分には、縄文時代中期の土器片をはじめとした遺物の散布が確認された。更に、現地表土の状態から、当該地には比較的良好な状態で、遺構が現存していることが十分推測されるに至った」とある。

これにより遺跡は発掘調査が行われ、ことに案内看板には「中世の笹下城址があったとされていますが、それに関する遺構は発見されていません」という旨の案内文があるが、当発掘調査報告書には現在の笹下中央公園はハッキリと「出城および練兵場の部分」とされ、畑となる前は何らかの遺構もあったのかもしれない。


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この遺跡からは数多くの遺物、遺構が出土しているが、横浜市の出した看板とは裏腹にその遺跡出土地域は完全に環状2号線と重複しており、環状2号線を通すために完全に丘を削ってしまっており、公園の案内看板のように「現在の公園の下には、遺跡がそのまま保存されています」という説明はどうにも腑に落ちないのである。

仮に、この発掘調査地域の南側にも遺跡がのこっているにしても、「遺跡がそのままで保存されています」という表記は誤解を招くのではないか。


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再び、笹下中央公園の北端から港南区の街並みを望む。かつてはずっと尾根続きの山並みが広がり、その台地上は遺跡でも城跡でもあったのだが、今は完全に削られてしまいその痕跡はない。

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公園北側の台地を大きく削り取り開通した環状2号線。今では横浜市内の大動脈として、日々物流の任を担っているが、この環状2号線を開通させるべくこの地にあった台地はすべて削り取られてしまい、今の形となった。

写真中央の陸橋の先、ちょうど左手の木に隠れてしまっているが、この先に大切岸の残決がわずかに残っており、この地がまぎれもなく雑色杉本遺跡であったことと、その後の笹下城の北出丸であったことを物語っているかのようである。


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今では決して元に戻すことが出来ない台地と貴重な遺跡はもう2度と戻ることはないが、街の発展と経済の振興の為に道路が開通させられたにしても、そのために破壊されたはずの遺跡が保存されているという横浜市の説明には一抹の虚無感を禁じ得ない。

 

それでも、夕暮れのなかの小高い台地に立ち、かつての笹下城出城・松本城天照大神宮・地元では神明様と呼ぶ)のあたりを眺める時、遠い縄文の昔にこの地で狩猟に農耕に生きた人々の息遣いと、練兵場での訓練に汗を流す名もなき雑兵たちの雄叫びが聞こえるようである。

 

 

 

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