みうけんのヨコハマ原付紀行

愛車はヤマハのシグナスX。原付またいで、見たり聞いたり食べ歩いたり。風にまかせてただひたすらに、ふるさと横浜とその近辺を巡ります。※現在アップしている「歴史と民話とツーリング」の記事は緊急事態宣言発令前に取材したものです。

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道路わきにたたずむ バス火災殉難者の供養塔(横須賀市)

横須賀市の西側、相模湾に沿って走る国道134号線沿いを走ると、自衛隊の武山駐屯地からほど近い路傍に、ひっそりと建つ石碑がある。

 

 

その石碑は建物の陰に隠れてしまい、また交通量が激しい国道沿いということもあって、実際にこの道を何度も通ったことがあるみうけんですら最近までその存在を知らず、この石碑を探しながら原付で走っても気づかずに通り過ぎてしまうほどであった。


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表面には、ただ殉難者供養塔とあり、目立たないながらも供養する人が絶えないのか石碑の前には真新しい花がお供えしてあるのが見て取れるのである。


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表面を見ただけでは、なんの殉難者を供養したものかは分からないが、裏側に回り込めば、この石碑が建立された経緯を読み取ることができる。


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「建立の趣旨

昭和25年4月14日11時35分 三崎行トレーラーバスが当地を通過の際 乗客の喫煙後投じたマッチより他の乗客の携行せるガソリンに引火爆発し 車内にて火災を起こし不幸にして焼死者を出したことは誠に哀悼に堪えず本碑を建立しその冥福を祈るものである」

(旧い漢字など現代風にしてあります)


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上記にあるように、昭和25年4月、この地においてバス火災があった。

終戦後まもない頃で、まだ鉄道やバスでの安全対策がおざなりな頃の話である。

 

ここに出てくるトレーラーバスというのは、運転席と客席を分離させ、客車を牽引していく方式で戦後すぐのころは一般的であった。

 

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(「京急バス車両の歴史」より)

 

メンテナンスが楽、小回りが利くなどの利点があったが、万が一の時に客車で改札を行うバスボーイ・バスガールまで被害を受けてしまえば、その状況を運転手に伝える手段はなくなり、この時も炎上する客車を牽引したまま運転手はまったく気づかず数十メートル走ったそうである。

 

この日の乗客は50人をこえ、車内はかなり混雑していた。

今ではバスの車内ではガソリンの携行はもちろん、喫煙すら御法度であるが、このころは当たり前の事であった。

 

戦後の闇市でガソリンを買い、自宅に持ち帰る途中に車内に置いていたガソリンの携行缶の近くに別の乗客がタバコに火をつけたマッチを捨て、その火がガソリンに引火した。

 

驚いた乗客は、火のついたガソリンの缶を車外から投げ捨てようと試みるが、このバスは窓が大きく開かない構造だったため捨てることが出来ず、あろうことか倒してしまい漏れ出たガソリンは爆発炎上してしまう。

 

しかも、このバスは木造。

今とは違い非常時にドアを開けるコックすらついていない代物であり、火炎地獄に乗客を閉じ込めたままのバスは阿鼻叫喚の修羅地獄となるが、運転士はまったく気づかずにそのまま走り続けた。

 

やがて運転士が気付き停車させるとただちに消防隊、消防団進駐軍までが集合したが、バスは完全に燃え尽きてしまい、焼死者はもはや男女の区別もつかないような状態だったとされている。

 

横須賀市史」によれば、この事故で19人が死亡したとされ、この殉難碑の裏にも19人の名前が刻まれており、その内訳は横須賀市、初声村などに続き東京都台東区や千葉県印旛郡の住人も含まれている。

 

終戦直後で破壊されつくしたインフラの中でも人々は生きていかなければならない。

限られた資源と設備でいかに大量に、効率よく運ばれるかが優先され安全性は二の次だった時代。 

 

一台のバスでいかにたくさん運ぶかという事が重視され、戦後の大量輸送を担ったトレーラーバスだったが、この事故もきっかけとなりその後は急速に姿を消した。

 

また、このバス火災からちょうど一年あとの昭和26年4月、国鉄桜木町駅ではパンタグラフから発火した列車が炎上し、ドアも開かずに乗客が閉じ込められ、焼死者106人・重軽傷者92人を出す大惨事となった。

 

このバスと電車の火災という、もしかしたら防げたかもしれない大惨事に国民の怒りは集中し、その後の非常ドアコックの設置の義務化、ガソリン類を始めとする危険物を車内に持ち込むことが禁止されるようになったのである。

 

その後も昭和55年の新宿駅西口バス放火事件など、バス火災による痛ましい事故はなくなることはなかった。

 

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だが、今の安全意識と安心して利用できる公共交通機関の発展には、少なからず過去の多大なる犠牲の上に成り立っている事を忘れてはならない。

 

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いま、過去の惨劇など知らないであろう学生たちが楽しそうに乗り集うバスを見るとき、また振り返りもせずに走り去る自家用車の群れをみるとき、夕日にぼんやりと照らされた供養塔のなかに、無名のまま一生懸命に生きながら突然の猛火に無念のまま焼かれていく無情と、残された家族たちの悲哀がそくそくと思い出されてくるのである。

 

 

 

 

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