みうけんのヨコハマ原付紀行

愛車はヤマハのシグナスX。原付またいで、見たり聞いたり食べ歩いたり。風にまかせてただひたすらに、ふるさと横浜とその近辺を巡ります。

関東大震災で犠牲となった 朝鮮人たちの慰霊塔(横浜市西区)

JR東海道線保土ヶ谷の駅から南進し、相鉄線とJRに挟まれるかのような小高い丘を登っていくと、眼前に横浜港を見下ろす久保山墓地があるが、その一角に築かれた古墳のような塚が「横浜市大震火災横死者合葬之墓」である。

 

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今からおよそ100年近く前の大正12年(1923年)9月1日11時58分、関東地方を襲った関東大震災はちょうど昼頃でもあったことから各地で火事を出し、関東の街という街を崩壊させ灰燼に帰させたことは誰もが知るところであろう。

 

もちろん、多くの日本人が犠牲となったのだが当時日本に多く住んでいた朝鮮人にとっても受難の日であった。朝鮮人が井戸に毒を投げた、火事場泥棒を働いた、などの噂話が出回り、各自で「自警団」が組織されて、朝鮮人を見つけ次第ことごとく縛り上げられてなぶり殺しにされたという。

 

横浜市震災誌第5冊にある西川春海の文章「遭難とその前後」には、以下のように詳述されている。

 

けさもやりましたよ。その川っぷちにゴミ箱があるでせう。その中に野郎一晩隠れてゐたらしい。

───それを見つけたから、皆でつかまえようとしたんだ。奴、川へ飛び込んで向ふ河岸へ泳いで逃げやうとした。

旦那、石ってやつはなかなか当たらねえもんですぜ。みんなで石を投げたが一つも当たらねえ。で、とうとう舟を出した。

ところが旦那、強え野郎ぢやねえか。十分くらいも水の中へもぐってゐた。しばらくすると、息がつまったと見えて、舟の直きそばへ頭を出した。そこを舟にゐた一人の野郎が鳶でグサリと頭を引っかけて、ヅルヅル舟へ引寄せてしまった。まるで材木といふ形だァネ。

──舟のそばへ来れば、もう滅茶滅茶だ。鳶口一つでも死んでゐる奴を、刀で斬る、竹槍で突くんだから。

 

 

このようにして数多くの朝鮮人が殺されたとされているが、その中の何人が、実際に井戸に毒を投げ、火事場泥棒を働いたのかは誰にもわからないという。

中には日本人であるのに、言葉にどもりがあるというだけで朝鮮人に間違われては木に縛り付けられて殺されたものもいるという。

 

当時、現在でいう小学校1年生だった石橋大司さんは大火が街を飲み込んでいくさなか、他の多くの住民のように、家族とともに右往左往と逃げ惑っていた。

その途中で、電信柱に後ろ手に縛られ血みどろとなった朝鮮人の死体を見たのであるが、その強烈な記憶は大人になっても消える事はなかったという。

 

後年、1970年代に入ったころ「多くの日本人は朝鮮人を虐殺したり、目撃しているのに、口をつぐんでいる。恥ずべきことだ」と当時の飛鳥田一雄市長に手紙をだしたが相手にはされなかったために私財を投げ打って、市有地に許可を得て「少年の日に目撃した一市民」と裏に刻んだ慰霊碑を建てたのが、現在「横浜市大震火災横死者合葬之墓」の脇にひっそりと建つ「関東大震災殉難朝鮮人慰霊の碑」なのである。


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また、地下鉄吉野町駅から南側に行ったところにある寶生寺には「関東大震災韓国人慰霊碑」という大きな碑が残されている。

 

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これは、震災のあと李誠七さんという男性が、そこかしこに無残にも投げ捨てられていた朝鮮人の遺体を集めては大八車に載せて、手当たり次第に寺を回っては供養をしてもらえないか訪ねて回ったという。

 

しかし、当時はお寺も倒壊したり、数多くの遺体が運び込まれたりしていてそれどころではなく、ただ一カ所、この寶生寺の住職であった佐伯妙智住職により受け入れられ、後には「朝鮮人法要会」も開かれるようになった。

 

李誠七さんが亡くなった後、鄭東仁さんという韓国人が遺志を受け継ぎ、それに賛同した在日本大韓民国民団により1971年に「関東大震災韓国人慰霊碑」が建立されたのである。

 

李誠七さんにより大正13年(1924年)に始まった追悼会は今なお民団に引き継がれ、在日韓国人による追悼会が今でも行われているが、関東大震災で殺された朝鮮人の慰霊祭が現在でも受け継がれているのは現在ではここだけになってしまった、という事である。

 

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生きるために、働くために。

海を渡って日本の地を踏むことになった数多くの朝鮮人たち。

 

いま、久保山の小高い丘から、すっかり平和になった横浜の街を眼下に臨むとき、火に呑まれ崩壊した街の中で、柱に縛られ、川に追われて命を落とした朝鮮人たちの断末魔の叫びがここにも聞こえてくるようで、ここにも時の流れのはかなさをひしひしと感じさせられるのである。