みうけんのヨコハマ原付紀行

愛車はヤマハのJog・CE50。時速30キロで見たり聞いたり食べ歩いたり。風にまかせてただひたすらに、ふるさと横浜とその近辺を巡ります。

つはものどもが夢のあと (神奈川県某所)

本日は5連休の4日め。 
5連休とはいえ明日は会社にちょっとした用事があり出勤せねばならんので、実質連休は今日まで。 

せっかく天気も良いのだし、何かしなくてはもったいないので前から気になっている、逗子と鎌倉の間にある廃寺跡に行ってきた。 

鎌倉にはたくさんのお寺があるが、その中には少なからず鎌倉武士が自らの菩提寺として建立した物もある。 
しかし、鎌倉幕府が滅亡したり、建立した一族が途絶えたりして、悲しきかなその多くは廃寺となっていった。 

今回行った某寺跡(と言われているところ)もそのうちの一箇所。 

鎌倉は、天然の要害である。 
鎌倉には鎌倉城という言葉があるが、正にその表現は正しいと思う。 

日本人は城と聞くと、名古屋城や姫路城のような豪華絢爛な天守閣を思い浮かべるが、それらが今の姿になったのはずっと最近のこと。 
日本が平和となった江戸時代のものが多い。 

もともと、城という物は戦時の防御基点である。 
攻めにくい山の上に造り、空彫りや土塁(堤)や柵で囲い、敵の攻撃を防ぐためのものであり、戦国期などには小さなものも入れると全国に無数に作られた。 
今では大都市となった東京にも渋谷城、世田谷城などはあったし(今は跡形もない)横浜市でも知ってる限り数十箇所の城があったそうだ。 

ただ、その大部分は土と柵で出来た、砦であったわけだが。 

中国や朝鮮半島では「城」と言えば街中を城壁で囲んだもので、ソウルの南大門や東大門はその城門だけが残ったものであるし、北京の紫禁城などもその一例である。 

鎌倉の場合は街全体を海と険しい山に囲まれた、谷間に街を作り上げた。 
まさに天然の城である。 

しかし馬が交通の主役であった当時、馬も通えない首都では不都合が多いということで、鎌倉の街と周囲の街道は「切り通し」と呼ばれる道で結ばれた。 


▼切り通し 



これは山を切り開いて道を作ったのだが、わざとクネクネと曲がりくねり、真ん中には大きな石を置いて馬が駆け抜けることが出来ないようにしただけではなく、両側に切り立った崖から、下を通る敵を攻撃できるような構造にしてある。 

▼馬止めの巨石 



▼敵が通る時には崖の上から、矢や石が浴びせられた 




敵を谷間に誘い込んで上から攻撃する様子は三国志などにも出てくる兵法の基礎であり、この鎌倉切通しも例に漏れず、攻めにくく守り易い造りとなっている。 

この切通しは有名な物だけでも何本かあるが、とある一本の切通しの脇にこの廃寺はある。 
脇とは言っても、うっそうとした山林の奥深くに眠っており、幾多の雑草とクモの巣を分け入ってガサゴソと入らなければならない。 
もちろん、地図には載っていない。 
すっかり朽ち果てた階段と、かすかに残るケモノ道だけが頼りである。 

廃寺といっても何も建物などは残っておらず、五輪塔と呼ばれる昔の墓石が無数にころがり、壁にはやぐらと呼ばれる鎌倉特有の横穴墓が残されているだけ。 

▼数々のやぐら。 










▼打ち捨てられ埋もれつつある五輪塔。 
保存状態が良いものは整理番号が付いているが、それだけでも一千基を越えると言う。 















この五輪塔・やぐら共に鎌倉時代室町時代のものとされているが、詳しくはハッキリしていない。 

五輪塔は江戸以前に特に見られた墓石の形態であるが、これは僧侶や武士・貴族などが使うものであり、一般の人たちは使うことはほとんどなかった。 
ただ、鎌倉の名所にある立派な五輪塔に比べ、これらは皆こぢんまりとしていて、また磨り減り苔生した姿がかえって時代の流れを感じさせる。 

また、墓を作る場所を確保できず、その割に崖の多い鎌倉ならではの墓地であるやぐらも、同じく特権階級か、それに近い人たちのものであった。 

今でこそ草に埋もれつつあるが、昭和の終盤まで公園として整備されていた廃寺跡は、鎌倉時代の兵達の夢の跡を今によく伝えている。 

▼主を失った椿。 
さびしく一輪だけ咲いていた。 
この椿が再び、人々を魅了する日は来るのだろうか。 



▼夕方の逗子海岸。 
鎌倉を去った人達は、どんな思いでこの海を眺めていたのだろうか。 




鎌倉には有名な寺院や名所も数多くあり、なぜわざわざこんな所に行くのかと問う人がいる。 
しかし、これも鎌倉の歴史の1ページである。 

近代技術でキレイに改装された名所よりも、かつての姿を少しでも留めているような、こんな隠れた名所に魅力を感じている。 

これこそが、(昭和期に公園になったとはいえ)確かに鎌倉時代に跋扈した、名もなき鎌倉武士と下級貴族たちの生きていた痕跡だからである。 

 

(この記事はみうけんの旧サイトから転載したものです)