神奈川県の津久井から道志川に沿って上っていき、やがて山梨県へと入って山中湖へと至る、明るく開けた国道があります。
国道413号線と呼ばれるこの道は、遠くに丹沢山塊の山並みを望み、ところどころ森と畑が織りなす牧歌的な光景を楽しむのにうってつけで、みうけんのお気に入りのツーリングロードのひとつでもあります。
途中、青野原の集落のあたりを通り過ぎると、道志川に流れ込んでいる「西沢」という沢にかかった立派なアーチ橋を渡ることになりますが、このアーチ橋の脇に降り口があるので、ちょいと原付を隅に止めて行ってみる事にしました。
こういう時、比較的どこにでも止められる原付は便利なものです。
藪の中だか農道だか分からないような、まるで獣道のようなところをしばらく歩いていくと、小さな墓標が草陰に埋もれるようにして、ぽつんと立っているのがわかります。
ここまで来れば、夏場は虫よけ必須です。
この藪の中にひっそりと立っているのは、戦国時代に相模国を支配し、関東一円に勢力を伸ばしていった戦国大名北条氏の筆頭家老であった松田氏の中興の祖、松田左衛門尉頼秀墓(まつだざえもんのじょうよりひで)の墓であるということです。
相模松田氏は藤原鎌足を遠祖とする名族で、代々にわたって保元の乱や石橋山の戦いで功績を残してきました。
ここに出てくる松田頼秀は第8代目にあたり、北条氏の筆頭家老として権勢を振い、歴史好きの中でも有名になるのは、それより2代後の10代目、松田憲秀です。
永享10年(1438年)、第4代鎌倉公方(関東を統治した長官)であった足利持氏が主家の6代将軍足利義教と対立したあげく、失脚させられてしまうという事件が起きます。
そうなると、鎌倉公方を補佐する関東管領の職に就いていた上杉氏が関東の実権を握るようになりました。
しかし、その名族上杉氏も権力や家督相続をめぐる内紛が絶えず、家内での分裂と対立を繰り返します。
そうして分かれた主たるものが、扇ヶ谷上杉氏や山之内上杉氏といわれる一族です。
明応3年(1494年)、この戦に参戦しようと出陣した松田頼秀でしたが、残念なことに山中で迷ってその命を落としてしまいます。
これから戦、という時に山中で迷って亡くなったとあれば、武士としてこれほど悔しい話もないものでしょう。
その松田頼秀が行き倒れとなったとされる場所がここだとすれば、家来たちの手によってそのままねんごろに葬られたのでしょうか。
この松田頼秀は、言い伝えによれば大変に聡明な人物で、龍泉庵の住職に向け、世の乱れを嘆く遺言状を送っていたといいます。
最近の国と兵の乱れは悲歎するに余りある。
これ以上は言葉に言い現わすことができない。足利持氏将軍以来、三代になるが、関東の騒乱はますます激しく、戦死者が山のように積み重なりその血は川のようだ。
一時期、足利幕府と鎌倉府が仲直りしたが、その家臣どもが謀をたくらみ、またもとのようになってしまい、人民の騒動はもはや止められないでいる。
そればかりか、両上杉氏が同名でありながら剣を交えることが、数年続いている。
それだけでなく、外国からも兵が日本に侵入してきた。
いま、特に上杉の軍は公方の官軍といっても追罰して、関八州のひとびとは彼の威を恐れている。
自分もこの乱世にあって、扇ヶ谷上杉殿の陣に馳せ参じようとしたが、山中で運が尽いたか濃霧に遮られ、しかも敵に四方を囲まれ進退ここに窮まってしまった。
自分の命も芭蕉の葉のように破れやすく、まさに風前の灯である。
本懐ではないが、ここで武士として世を果てるゆえ、これらの趣を披露し弔ってもらいたい。
残念ながら、この遺言状は寛文年間の大火により灰塵に期したものの、その写しと鞍、甲冑は今も残されて龍泉寺の寺宝として大切に納められているということです。
いま、時代は流れてひとり藪の中に立ち、苔むして詣でる人もほとんどいなくなった墓石に香華を手向けて手を合わせるとき、この世の乱れを憂い立ち上がりながらも非業の死を遂げた松田左衛門尉頼秀が何かをしきりに語りかけてくるような気がして、ここに数百年のむかしに散っていった相模の武将に想いを馳せたのです。
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