みうけんのヨコハマ原付紀行

愛車はヤマハのシグナスX。原付またいで、見たり聞いたり食べ歩いたり。風にまかせてただひたすらに、ふるさと横浜とその近辺を巡ります。※現在アップしている「歴史と民話とツーリング」の記事は緊急事態宣言発令前に取材したものです。

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苦難を乗り越え永遠の愛を手に入れた おはんと清吉の恋物語(相模原市)

相模原市の、どの駅からも遠く離れた大島というところがあります。

観光客なども決していないような静かな住宅街で、近くには相模川が流れているくらいのところです。

そんな静かな住宅街の一角に、日蓮宗寺院である三宮山 法性寺があります。

 

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このお寺は、戦国時代ごろの開基です。

千葉県にある日蓮宗名刹、誕生寺の末寺であり毎年7月の「土用丑の日」に行われる「ほうろく灸」という行事が有名だそうです。

 

これは、ほうろくと呼ばれる素焼きの土鍋を頭にかぶり、その上部に大きな灸を据えて無病息災を祈り、また頭痛を治める効果があるとされています。

 

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さて、このお寺の門前にはいくつかの里墓が残されています。

そのうちの一つには、悲しい結末が多い民話の中でも稀に見る一発逆転! ハッピーエンドとなる、「おはんと清吉」の若き男女の興味深い恋の物語が、今なお語り継がれています。

 

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寛延2年(1749年)6月、このあたりの大島の郷で、おはんは「権兵衛」の長女として生まれます。

 

おはんは周囲でも評判の器量よしでしたが、近くに住む「清作」の次男、「清吉」と式を挙げる事となり、2人はまるで兄妹のように慈しみ合いながら仲良く暮らしていたといいます。

 

明和7年(1770年)のこと、領主のお殿様がお供を連れて領地検分に訪れた際、大島の名主の役宅に宿をとりました。

 

あまりにも突然の事であったので、村人は大慌てでご馳走を整え、おはんも数人の村娘達と共にお酌を務めたのです。

 

そこで、あまりのおはんの美しさをすっかり気に入った領主はさっそく名主を呼び、おはんを奥女中に取り立てて江戸へ連れ帰ると申し渡したのです。

 

多くの村人たちは、これほど誉れ多き出世があるかと喜びを口にしますが、将来を誓った仲であったおはんと清吉は思い悩み、しかし抗えぬ運命とあって抱き合って泣き続けるしか術がありません。

 

二人はよほど思い悩んだのでしょう、このまま領主の傍女とされるなら、いっその事あの世で仲良く暮らそうと近くの法性寺へ駆け込み、死出の旅路を歩むことにしたのです。

 

その時、たまたま庭の掃除をしていた住職はただごとではない二人の様子を見て、「お前達のことは、この拙僧に任せよ」と伝えるとさっそく書院へ行き、

 

 館で絹着る 玩び女(もてあそびめ)より

 寺で麻衣の 墓守り

 

と一筆したためると、おはんの髪と一緒に殿様へ渡せと言いつけたのです。

 

いっぽう、村人達は駕籠を2丁用意し、殿様とおはんを盛大に見送る準備を整えていました。

 

おはんは自らの髪を切り、住職が書いた紙に一緒に包んで殿様の駕籠に投げ入れると、ただ驚くばかりの村人たちを尻目に、清吉とともにお寺の中へ逃げ込んでしまったのです。

 

いかに権威ある殿様であろうとも、仏さまの見守るお寺の中では乱暴に連れ戻すこともできません。

殿様は自らの行いを大いに恥じて、逃げるように江戸へ帰ってしまいました。

 

しかし、残された村人たちは後々、責めがあるのではと気が気ではありません。

しばらくして、家老がお供の侍も連れずに秘かに名主宅へ侘びに来ました。

 

家老が言うには、この醜態が江戸の大目付役にでも知られたらお家は断絶、家来も路頭に迷うので、なにとぞ内分にと詫びてきたのです。

 

さすがに、村人たちも家老に頭を下げられたら、その申出を断るわけにもいかず、この話はなかった事となったそうです。

 

しかし、寺で麻衣の墓守りと宣言したことを無碍にもできません。

おはんは法性寺にて尼となり、清吉は寺男として仕えることで、一生を法性寺の墓守りとして仲良く暮らした。と言われています。

 

清吉の墓は、寺の正門前の墓地に建立されております。

そこには「清道日法信士 清吉」(安永5年、1776年没)の脇に、「是性院妙範日慈比丘尼 はん」(文化13年、1816年没)が仲良く陰刻されています。


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清吉が安永5年(1776年)没で、おはんが文化13年(1816年)没だとすると、清吉が亡くなってからおはんが亡くなるまでの間、おはんは40年も一人だったことになります。

 

おはんは、愛する清吉亡き後も、この法性寺にとどまって読経三昧の日々を送り、文字通り清吉の菩提を弔ったことでしょう。

 

時は流れ、いまこうして二人が仲良くお墓の中に入っているのを見るとき、この二人の死出の旅に、これからも幸多かれと願いつつそっと手を合わせたのです。

 

 

 

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