みうけんのヨコハマ原付紀行

愛車はヤマハのシグナスX。原付またいで、見たり聞いたり食べ歩いたり。風にまかせてただひたすらに、ふるさと横浜とその近辺を巡ります。※現在アップしている「歴史と民話とツーリング」の記事は緊急事態宣言発令前に取材したものです。

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ミナト横浜の発展を作った 港湾労働者たちの供養塔(横浜市中区)

ミナト横浜は、今となっては日本有数の観光地であるが、その中でも赤レンガ倉庫やみなとみらいはとりわけ有名で、いつも多くの人が押し寄せる名所である。

 

その赤レンガの脇に、静寂の中にある小さな波止場があるが、こここそがいわゆる「象の鼻」であり、かつてミナト横浜の開港はここから始まったのである。

 

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(文明開化のころの横浜・象の鼻。右上の海に突き出した部分。左下の野球場は現在の横浜スタジアム

 

現在となっては、沖合まで埋め立てて埠頭を造り、そこに巨大なコンテナ船を横付けさせてガントリークレーンで行う荷役作業。

それは、かつて全て人力での荷役作業によって行われていた事をご存知であろうか。

この港湾労働者供養塔がある象の鼻地区は、横浜港開港の出発点として港湾労働者が活躍した中心の舞台となった。

 

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江戸末期から明治の文明開化にはじまり、大正時代の文明爛熟のころ、昭和の大恐慌から大東亜戦争を経て、戦後の経済復興期に至るまで、横浜港では着岸待ちの貨物船であふれていたという。

そのころに作られたのが現在の横浜港の礎であり、観光地としても名高い「横浜赤レンガ倉庫」でもある。

 

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当時の荷役作業というのは、現在のように巨大貨物船を岸壁に横付けするものではなく、沖合に貨物船を停泊させては「はしけ」(バージ)に人力で荷物を積みかえに行き、波止場では再び人力で水揚げをするというもので、ましてや現在とは違い安全衛生などの意識も低かった時代であるから、当然ながら不慮の事故も絶えず、海上で亡くなる人が少なくなかったそうである。

 

(J-ロジテック様HPより借用)

 

ある時は荷の下敷きとなり、またある時は海中に転落するなどして、還らぬ人となった港湾労働者たちの亡骸を迎えたのも、ここ象の鼻の突堤であった。

そのような経緯があったことから、この「横浜港港湾労働者供養塔」は昭和49年(1974年)7月に山下ふ頭に建立されたものが、横浜港開港150周年に合わせて整備された、横浜港発祥の地の「象の鼻パーク」に、港の発展を支えた人たちを供養するために移設されたのである。


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平成22年(2010年)6月2日の神奈川新聞には「横浜港で亡くなった港湾労働者を供養、市民らが感謝と敬意込め」という見出しで、以下のようにつづられている。

 

横浜港で亡くなった港湾労働者の供養祭が2日、横浜市中区海岸通の象の鼻パークで営まれた。開港記念日とあって、林文子市長をはじめ港湾関係者や市民ら1750人が参列し感謝と敬意を込めた。

横浜港運協会と横浜港湾福利厚生協会が主催した。供養塔に黙とうした後、横浜港運協会の藤木幸夫会長(横浜港湾福利厚生協会会長)は「横浜港で一番忙しく、にぎやかで騒然としていて、そして原動力となった場所だった。ここに大勢の方に来ていただき、港で働いた人たちへの理解が広がれば」とあいさつした。

供養塔は横浜港で不慮の事故で亡くなった港湾労働者を供養するため1974年に山下ふ頭に設置。昨年5月に開港150周年を記念して横浜港発祥の地である象の鼻パークに移転した。現在まで2822柱が合祀(ごうし)されている。

 

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いま、この象の鼻地区に残された港湾労働者供養塔のある背後から横浜港を見渡すと、かつて横浜港に常雇い4千人、日雇い2万人を数える港湾労働者たちがひしめきあい、その肩に重い荷物を載せて行き来していたという姿がにわかに思い出され、またすぐ目の前に残された港湾貨物鉄道のガードには、まるで今でも貨物列車が走り出すかのような錯覚に襲われるのである。


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いま、休日の喧騒とにぎやかな家族連れや恋人たちが楽しそうに歩くこの公園で、ひとり静かにこの供養塔に手を合わせるとき、かつてミナト横浜の礎として働き、名もないままに消えていった数多くの港湾労働者たちの雄々し気な姿が思い起こされるようで、遠くに聞こえる汽笛の中に感慨もひとしおである。

 

 

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