神奈川県西部に位置する真鶴半島は、弓のように弧を描いた相模海岸から相模灘に突き出すようにしてあり、その地は山深く急峻であるが、現代となっては走りやすく切り開かれ舗装された道が隅々まで整備されて、我が愛車シグナスXでも簡単に先端まで行くことができる。
その真鶴半島の先端は三ツ石と呼ばれて、岬の先端には海面から突き出た磯場を波が洗う風景となり、まこと風光明媚にして、かの歌人の与謝野晶子がこよなく愛したというのもうなずける話である。
与謝野晶子は、義務教育で必ずと言ってよいほど出てくる有名な歌人であろう。
誰しもがその名を聞いたことくらいはあるはずであろう。
与謝野晶子は明治11年(1878年)12月生まれ、昭和17年(1942年)5月に生涯を閉じたが、その間に著した歌集「みだれ髪」(1901年)や、日露戦争の時に歌った「君、死にたまふことなかれ」などの名作が残され、「源氏物語」を現代語に訳した事でも知られている。
与謝野晶子は、昭和7年(1932年)に夫である与謝野鉄幹と共に真鶴を訪れ、そのあまりの景色の美しさに感動した晶子は
わが立てる 真鶴崎が 二つにす
相模の海と 伊豆のしら波
と詠んだのである。
今となっては目立った案内看板もなく、時折足を止めては記念碑を眺める人はいたものの、その判読の難しさから多くの人が素通りしてしまっているようで、まことに惜しむべくかな、といったところか。
いま、はるかに相模灘の波濤を望む真鶴の岬に立つとき、かつての歌人与謝野晶子もこの風景を眺めたのかと思うと、ここにも身近な歴史の面白さというものをしみじみと感じるのである。