神奈川県の西の端、相模灘に突き出した小さな真鶴半島の南端にはかつて「真鶴サボテンランド」として親しまれた「お林展望公園」があるが、その脇の入り江もかつては観光客で賑わった水族館と観音像があったことを知る人は、どれだけいるだろうか。
訪れる人も絶えて久しく、すっかり廃墟と化してしまった真鶴水族館であるが、今でもGoogleマップの航空写真では、はっきりとその痕跡を認めることができる。
実は、みうけんもこの真鶴水族館の存在は知らなかった。
25年ほど前に、植物大好きな同級生とサボテンランドに行った思い出は残るが、その時はこんなものが近くにあるだなんて、全く知らなかったのである。
この時も、真鶴半島を原付で一周していたら、たまたま道路わきに「内袋観音参道」の石碑を見つけて気になったので、訪れてみたのである。
この「内袋観音参道」の石碑は、裏側を見ると「昭和二十九年四月十七日 願主 真鶴町 青木政一 妻ハナ」と刻まれており、このお二方は恐らくご存命ではないと思うのだが、それほど古い石碑ではないことが分かる。
しかし、その脇の参道入り口はすっかり巨石で塞がれて車両では入ることができず、仕方なくここに原付を置いて徒歩で入ってみることにした。
ここから先は本当は立ち入り禁止なので、自己責任での侵入である。
覆いかぶさって来るようにしてある密林の中に、その廃道は伸びていた。
廃道とはいえガードレールは比較的新しいし、道路もきちんとアスファルト舗装がなされていて実に歩きやすい。
この道はいつごろ整備されたのだろう。少なくとも、昭和の中頃よりも最近な気がする。
とはいえ、まったく管理はされていない模様で、このようにして倒れた木々もそのままになっており、やはりここは徒歩で訪れるべき場所なのだろう。
長らく放置されていた真鶴水族館の建物が廃墟となっていたが、廃墟マニアと呼ばれる人の間では有名な場所であった。その後、危険であるとして2005年頃に建物が撤去されたというから、そのころに重機やトラックを通すために整備した道なのかもしれない。
つづら折りの坂を下りていくと、だんだんと開けたところに出てきた。
そう、この先がかつて観光客で賑わった真鶴水族館があったところなのだ。
今となっては数えきれないほどの漂着物がつみあがって、足場も悪い事この上ない。
この場所を訪れる時はスニーカーでも不足だろう。冬場の原付ツーリングではサイドジップのブーツを愛用しているが、こういうところを歩くたびにブーツというものの素晴らしさを実感するのである。
↓↓↓みうけんさん愛用のブーツ。
コスパいいし、サイドジップなので脱ぎ履きしやすい♬
かつて、ここに竜宮城のような建物が建ち、たくさんの観光客で賑わった時期があった。
今となっては誰もいない、静かな入り江である。携帯も圏外であった。
もし、こんなところで転んで足を折ったりしたら完全に帰れなくなるだろう。気が引き締まる。
地域資料にあった、昭和38年頃の真鶴水族館。
昭和30年(1955年)、もしくは昭和32(1957年)年に開業したものの、昭和54年に台風により屋根が崩壊したために閉鎖されたのだという。
その後、平成17年(2005年)に建物が解体されるまでは廃墟であった。
こちらに、廃墟だったころの写真が残されているのでリンクを張らせていただく。
敷地の片隅にあったコンクリート製の門。
これと同じものが、上の写真の右端にも写っている。
この水族館の敷地の脇に、崖に穿たれた横穴がある。
内袋観音というのは、この中であろうか。
藪漕ぎしながら近づき、そっと中をのぞいてみた。
そこには、まぎれもなく聖観世音菩薩座像が鎮座されていた。
驚くことに、真新しい生花が供えられているではないか。このような所に、いまだに御祭しに来る方がいらっしゃるのであろうか。
それにしても、何という美しいお顔であろう。
数多くの観音像や仏像を見てきたみうけんであるが、その美しさと妖艶さに、しばし時を忘れて見つめあってしまった。観音像には珍しい、大きく見開いた目とハッキリ表現された黒目、お口にうっすら残る口紅が、その表情をより一層際立たせているのであろうか。
2016年5月13日号の箱根・湯河原・真鶴版「タウンニュース」によれば、この観音像は台座を含めた高さは約4m。最初に誰が彫り始めたのかは分かっていないものの、タワシや線香が置かれ、今なお参拝する人がいるようである。
町内に住む観光ガイドの加藤仲男さんによれば、昭和27年(1952年)の町勢要覧が最も古い公的記録だという。そこには「明治初年、切込石工が採掘した跡、百畳余の大穴に新たに彫刻した1丈6尺の見事な観音座像」と載っているのだという。
この時は未完成だったらしく、町広報では「昭和28年に地元の石材業者などが発起人となり、観音像の彫刻が再開、昭和29年に完成した」ことも分かった。
冒頭の「内袋観音参道」の石碑と時期が一致する。
この時には、彫刻家の八柳五兵衛氏と八柳伸五郎氏、和田敏郎氏の3人が腕を振るったとされる。いずれも故人であるが、狛犬や仏像彫刻で名を馳せた彫刻家一門だったという。
その頃にはうやうやしく幕が張られ、彩色も施されたというし、今でもその色は観音菩薩のお顔にわずかに残されているのが見て取れるのである。
この観音像の門前には、いまだに寄進者名簿の石碑が残されており、それを読んでいくと地元はもちろん、遠く東京や伊東などから寄付が寄せられていた事が分かり、多くの信仰を集めていたことを物語っているのである。
いま、訪れる人がめっきり減ってしまった観音像の門前には、長らく潮風を浴び続けてすっかり擦り減ってしまった灯篭が物寂しく立ち、往時の名残を少しでも留めようかとしているかのようである。
いま、この観音像の前に立ち、静かに線香を手向けて合掌礼拝するとき、かつて多くの親子連れでにぎわい、参拝者も絶えないにぎやかな時代があった事が思い起こされるようで、ここにも時の流れのはかなさを、そくそくと感じるのである。
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