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内袋観音に参拝を済ませた後は、再び海の方に目を向けてみた。
ここは、かつて真鶴水族館の建物があったあたりであろう。地盤に建物の基礎が痕跡として残されているのが見て取れる。
後ろを振り返れば、一対の石灯籠。
そう、ここは紛れもなく内袋観音の参道だったのだろうが、今は瓦礫と草に覆われてその面影はない。
崖に沿っていくと、生簀が何重にも繋がっている。
これは元は釣り堀だったようである。
当時のパンフレットが見つかったので掲載してみた。
現在のような大きな水槽を見上げるものではなく、40あまりの水槽を小窓から眺めるもので、水族館としてのウリはどちらかといえば釣堀だったようである。
上の写真、右下の釣堀は現在も残っており、Googleマップの航空写真にはその姿がはっきりと写されているのが分かる。
ここは、航空写真でいえば入り江の情報。砂浜になっているところで、往時はこの上に建物があったと思われる。
釣堀の外郭。
波に洗われて崩壊しているところもあるものの、しっかりした作りであることが分かる。これだけの立派な施設が、わずが20年ほどで廃墟と化してしまったというのがにわかに信じがたい光景でもある。
いけすを覗いてみれば、多くの小魚が群れをなして泳いでいた。
波に乗せられてやってきては閉じ込められたのか、大きな魚が泳いでいるのも見受けられ、小さなイカなども泳いでいる。まさに、今でも充分に釣堀として機能しそうであろう。
再び陸地に上がると、建物の外郭だったのか、それとも何かの仕切りでもあったのか。
コンクリートの線がずっと続いていた。
かつては、この真鶴水族館のシンボルツリーのような存在であったのだろう。
南国のリゾートを思わせようとでもしたのか、この地に不釣り合いなシュロの木が一本だけ残されては、この地にしっかりと根を張り、今でも生き続けているのがより一層あわれであった。
この記事の「上」記事の冒頭に貼った、在りし日の真鶴水族館の姿の写真を目を凝らしてよく見ると、右手の建物の丸い門の手前、ちょうど自動車と自動車に挟まれたところに、このシュロの木と思しき木が植えられているのが見て取れる。
おそらく、このシュロは真鶴水族館が出来たころに植えられて、たくさんの親子連れやカップルでにぎわう時期、そして台風で破壊され放棄されてしまう瞬間、廃墟となった建物が取り壊される瞬間を経て、今もここに生き続けているのだろう。
このシュロこそが、おそらくこの真鶴水族館をずっと見守り続けてきた唯一の生き証人なのかもしれない。
いま、この地にたって遠い海原を眺めてシュロの木をなでるとき、ここにも時の流れのはかなさと人の営みの栄枯盛衰が凝縮されているようで、二度とは戻らない水族館の追憶にひたり、感慨もひとしおである。