京浜急行が南北を貫く三浦半島東側の海岸沿いに比べ、西側の長井あたりは交通の便も悪く、公共交通機関と言ったら本数も少ないバスくらいのもので、訪れる人もまばらな静かな所である。
長井の台地には、かつて旧日本軍の飛行場が建設された。
追浜の第1飛行場(第1かどうかは諸説あり)に加えて第2、第3の飛行場が長井に建設されたものの、丘陵地帯を切り開いたり盛り土をしたりと2年間に及ぶ難工事の末、完成させたところで終戦となったのだという。
その後、米軍に接収されて米軍基地として機能していたが、日本に返還された後は現在の「長井海の手公園 ソレイユの丘」という遊園地となり、現在は車で親子連れが集まるレジャーランドと化しているのである。
さて、そのソレイユの丘には畑が広がるのどかな一角があり、その中にはとても狭い道で車では入れそうにない。
たとえ入れても農業用の軽トラックがやっとという道ばかりである。
その畑の中の道路を原付で駆け抜けていくと、突如として大きなサイロが建てられている一角があり、その脇にこんもりと木々が生い茂る塚がポツンとあるが、これこそが長井の哀しき戦乱の歴史を今に伝える経塚と呼ばれる塚なのである。
かつて、この辺りには長井寺(ちょうしょうじ)という寺があったという。
なかなかの大きさを誇り、いくつもの伽藍を有した壮大なお寺であったとされるものの、小田原北条氏が攻めて来た際の戦乱で焼け落ちたために、長井寺は台地より降りて現在の場所に移ったと伝えられている。
元々、この地にあった長井寺の脇に、三浦氏の家来である武士2人が住んでいた。
この2人は迫りくる北条氏の軍勢に対して勇猛果敢に戦ったものの、あえなく戦死したので哀れに思った里人がこの地に葬り、塚を築いたのが経塚のおこりだと地元の古老は伝えている。
また、通称このあたりを「べべ山」と呼んでいるが、長井寺の山号が「別覆山」(べっぴさん)であるため、その頃の地名が残ったものであろうか。
地名の由来に於いて、「ベッピ」というものは山林を切り開いたところ、というような場所に付けられる場合が多いというからこのべべ山もあながちそのような由来で付けられたものかもしれない。
経塚というものは、本来ならば中世などに何らかの供養のため、法華経などを土中に埋めて塚としたものを経塚と呼んだが、この塚に経典を埋めたという記録はなく、ただ地元の里人より経塚と呼ばれて現在も親しまれている。
また、江戸時代から昭和初期にかけて、この塚の所にとても目立つ3本の松が生えており、沖に出た漁師たちはこの3本の松と武山や大楠山の位置関係を覚えることで、自分がいる位置を測ったのだという言い伝えも残されており、これほどまでに小さな塚でありながら、漁が生活の中心であった三浦半島沿岸の人々にとって無くてはならないものだったのだろう。
時代は平成から令和へと変わり、科学技術も進歩を遂げて、もはや経塚は漁師たちのランドマークとして扱われることもなくなったのであろう。
今は訪れる人もなく、手入れをされることもなく木々に埋もれて、戦乱も戦争もなくなり平和となった長井の里をただ静かに眺めているように見えてくるのである。
いま、この経塚のふもとから、長井の里と遠くに見える相模灘を眺める時、ただひょうひょうと吹き抜ける潮風と、上空を旋回するトンビの声のみが寂しく鳴りわたって、かつてここで果敢に戦っては敵刃に倒れていった、名もなき武士たちの嘆き悲しむ声を今に伝えているかのようである。