みうけんのヨコハマ原付紀行

愛車はヤマハのシグナスX。原付またいで、見たり聞いたり食べ歩いたり。風にまかせてただひたすらに、ふるさと横浜とその近辺を巡ります。

遠き戦地の敵襲に散った 名もなき兵士の慰霊碑(横浜市泉区)

相鉄線いずみ中央駅の前を流れる和泉川に沿って南側へ下ると、ほどなくして静かなお寺が見えてくるが、これは近くに館を構えていた泉親衡(いずみ ちかひら、治承2年(1178年)~文永2年(1265年)が菩提寺として建立した泉龍寺という寺が元である。

 

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泉親衡が鎌倉幕府打倒の計画を立てたことが露見して逆に追われの身となり子孫ともども断絶して、それに合わせるようにして寺も荒廃していたのを、慶安4年(1651)に領主の松平勝左衛門昌吉が浄土宗の寺として再興し、名を改めて宝心寺としたのであるから、その起源は深い。


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その、平日の昼間とあっては訪れる人も少ない境内の片隅には「山村柳助之碑」と陰刻された石碑がポツンと建つが、これは日露戦争に出征し非業の死を遂げた、若き兵士の悲話を今に伝える慰霊碑なのである。


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この碑にもある山村柳助という人物は、この近辺の和泉村・田中徳左衛門の二男として生まれた。

正確は温厚で篤実、よく農耕に努めたという。

 

明治27年から28年の日清戦争では、戦功を立てて賞金二十五圓を賜わったが、それから10年のちの明治37年の日露戦争では後備歩兵・第四十九聯隊、第六中隊、第三小隊に編入されて出征することになる。

 

明治38年1月、行軍中に「清國鉄嶺の西方九里遼河の右岸籃楳保子の小村」(碑文)に駐屯していたが、これは現在の瀋陽市北側であろう。

 


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その時、当時はコサック兵と呼ばれた軽騎兵の集団から襲撃されて「苦戰奮闘」するが多勢に無勢、部隊は全滅して山村柳助氏も還らぬ人となったのである。

 

その後、勲八等・白色桐葉章と金五百二十圓を賜り、勇進院敢譽義山居士と号されて村葬の扱いを受け遺骨を埋葬し、この地に葬られ、時は流れて昭和12年にこの碑が建立されたのである。

 

父母のもとを離れ、家族のもとを離れ、友人からも離れ。

言葉も通じず、歩いては到底帰れない遠い敵地で非業の死を遂げた若き命。

彼の無念はいかばかりであったろう。

 

いま、夕日も照り付け日暮れも近くなる時に、一人この石碑の前で静かに手を合わせるとき、再び祖国の地を踏まずに帰らぬ人となった若き命の嘆きと、遺骨となった我が子を迎えたご家族の慟哭が今に蘇るようで、一筋の涙を禁じ得ないのである。