神奈川の秀麗丹沢山地の麓に広がる愛甲郡愛川町は、住宅地と農村が連なる静かな町で、鉄道駅などもないので商業施設も少なく、神奈川県の中でもひときわのどかな時間が流れる街であるが、愛川高校という高校の脇の交差点には今なお古いお地蔵様がひっそりと祀られているのを見る事ができる。
台石の脇をよく見ると、建立した年号がうっすらと彫られており、それによれば建立は恐らく文化12年(1815年)であり、徳川11代将軍家斉公の頃であろうか。
時代としては比較的新しいようではあるが、その摩滅ぶりによってひときわ古いように見え、そのお顔は崩れて表情の判別も付かず、犬の散歩をしていたご婦人に聞くところによると村の南北を守るために作られた対の地蔵のうち南側、ということしか分からず、もしこのお話を頂いていなければお地蔵様かどうかも分からないような有様である。
このお地蔵様の脇には木で出来た案内板が立てられ、詳細な説明が書かれていたのであろうが、その文字も完全に消えてしまい、まったく読めなくなってしまっている。
このように、一見すると荒れるにまかせるばかりにも見える路傍のお地蔵様ではあるが、前庭は綺麗に掃き清められ、そのお体には真新しくて真っ赤な頭巾と前掛けがかけられており、今なお大切に守られているさまが見てとれるのである。
お地蔵さまとは、本来ならお釈迦さまが入滅し、次の新たな釈迦如来が誕生する時まで、世の中を救う菩薩であるとされている。
また、より弱い者から順に救うと信じられたために、幼いうちに亡くなった子供や水子を積極的に救い、また極楽浄土に行く前に迷ってしまい、もしくはなんらかの理由で成仏できないままの亡者をあの世へと導く案内役であるとの信仰から、古くは小さな子供の墓石に刻まれ、現代では交通事故などの供養塔として建立されているが、なるほど赤い頭巾と前掛けは幼い子供のような装いを思い起こさせるのである。
仏教や儒教の世界では、親よりも先に死ぬことは最大の不孝とされた。
しかし好き好んで死を選ぶ子供などいないという事で、江戸時代に賽の河原の物語というものが広まったのである。
幼くして親より早く亡くなった子供が、生前成し得なかった徳を積み、極楽浄土へ行くために三途の河の岸辺である賽の河原で石を積み上げる修行をする。
しかし、そこの監視役である鬼がまたいじわるで、子供が一生懸命積み上げた石を端から端からみんな叩き崩してしまう。
そこに地蔵菩薩がやってきては、子供たちを冥界へと導いて行くという話である。
この話は庶民の間で瞬く間にひろがり、それ以降は地蔵菩薩は子供を愛し守る仏である、と信仰されるのである。
赤ちゃん、赤子の語源ともなった地蔵菩薩の赤い頭巾は、広い広いこの世とあの世で、子供が地蔵菩薩を素早く見つけてすがれるようにとの願いから始まり、また子供に魔除けの色である赤い服を着させたことが始まりとされる。
還暦の際に赤いちゃんちゃんこや帽子をかぶるのも、還暦の際に干支が5回回ったことになり、赤ん坊に戻るという意味がある。
宮崎アニメ「となりのトトロ」でも、行方不明となってしまった妹を姉が探すシーンで地蔵菩薩が象徴のように映されていたのも印象的であったが、ここ愛川のお地蔵様も古くなりお顔は痛々しく崩れてしまっても、真新しい赤頭巾と前掛けをかけて、今日も彷徨い泣き続ける幼子の霊に優しく語りかけ、手を取り極楽浄土へと導いているのであろう。